お盆なので

母方の祖母が亡くなって2年ほどが経つ。 祖母の縁故の方々から、立派な房の葡萄や大きな桃など、季節の果物を頂いた。

お盆なので、というにはこじつけた感じがあるが、何だか眠れないので、私のうつの話とはあまり関係ないが、祖母の話をしても良いだろうか。

祖母は8〜9年ほど前、母方の生まれの地方から1人で関東へやって来た。 長年病気の祖父の看病をしており、その祖父が亡くなったのと、 離れた土地での独り暮らしはこの先は何かと困る事もあるだろう、という事で、 祖母にとっては馴染み深い故郷から、関東の父母(と、同居している私)のすぐ近くの住居へと呼び、了承して来てくれたのだ。

母と父と私の住む家に祖母も同居する事は可能だったが、父が計らってくれて、ごく近くに別の住居を用意し、そこに祖母が独り暮らしをする形をとった。祖母は祖父が亡くなった後でも、自炊をし、買い物をし、独りで自活ができる状態だったからだ。 父母と同居している私が言うのもおかしいが、親子とはいえ、生活が既に確立した者同士が同居するのは一見楽なようでいて、そうではない。 台所の使い勝手、物の買い方、作る食事、過ごしたい時間、例え祖母と母が親子であっても、「1人で過ごしたい時間」というのは誰にでもあり、それを守るのが可能な場合はそうした方が良いのだろう。 祖母は1人で日々を送り、たまに私達と食事をする、そんな距離感の生活がとても合っているようだった。

びっくりしたのは祖母の独り暮らしの充実っぷりだ。 祖母はまだ母が幼い頃、生活費の為に、遠方へ出かけ、いわゆるお針子さんや女中さんのような仕事をしていた。 その当時は仕事は決して楽ではなかったろうが、結果として、祖母はとても炊事や洗濯、縫い物などが上手であり、それを苦とする人ではなかった。

祖母は祖父が亡くなった後もしばらくは独り暮らしをしていた為、買い物から自活まで、全てをじっくりと自分の一部として過ごしていたのだなと感じた。

祖母の住まいとして用意した家は、祖母が1人で住むには少し大きかった。 そして、祖母はとても綺麗好きで、整頓や掃除が趣味のような人だった。

「部屋がたくさんあって、一ぺんには掃除しきらんけん、今日はこの部屋、明日はお風呂、って毎日決めてするんよ。」

祖母はテレビも大好きだった。 朝起きると新聞のテレビ欄を見て、「今日は何時からこれを見る」と赤マルを付けておくのだ。 祖母はとてもミーハーで、芸能人のバラエティ番組や、有名なスポーツ選手が出る番組(おそらくそのスポーツ自体と言うよりも、スポーツ選手が好きなのだろう)を好んで見ていた。 祖母の家へ私達が言って夕食を食べた時も、私達の家に祖母を呼んで夕食を食べた時も、「ご飯はみんなで食ぶっとおいしかね」と繰り返し喜んだ後、きちんと「9時から見たいテレビがあるけん、帰るね」と言って、祖母の時間もちゃんと満喫していた。

近所のスーパーには毎日寄って、じっくり品を見るのが好きだった。この魚はどこから来た、この鶏肉はどこから来た、商品としての価値を見比べる為というよりも、それを知る事自体が好きなようだった。 そうして毎日少しだけ買い物をして、1日で綺麗に食べ終える量の丁寧な食事を作った。煮物などは量が多くなるので、作った時はうちへと分けてくれた。 料理が上手ではない母とは全く違う、派手でなくてもとても味が染みていて、切った芋や大根は面取りがきっちりされている美味しい煮物だった。 母が夕食を作り過ぎたのを持っていく時も、なんでも「食べるよ〜」と言って、お昼ご飯やその日の夕食に食べてくれていた。 そして渡した食器は見事に梱包されて帰ってきた。気遣う仲ではないのだが、それは祖母の癖なのだろう。

祖母はこちらへ来てから、立ち寄る店ごとに知り合いがどんどん増えていった。人当たりが良く、素朴で嫌味のない雰囲気が好かれたのだろうと思う。 気づけば近所の小さな雑貨店の店員さん(名前まで知り合う仲である!)、スーパーのレジの人(これまた名前を知り合う仲)、整骨院で知り合った人、隣に住むご近所の方々、祖母の住居群の掃除をしているおばさん達(祖母は雑巾を綺麗に縫って、あげていたのだという)、 びっくりするほど多くの知り合いが祖母の周りには居た。 長くこの土地に住んでいる私ですら、そんな交友関係は全くない。 ひとえに祖母の人柄だったのだろう。

ある時は、新聞の勧誘のお兄さんが祖母の家に来た。祖母はちゃんと鍵をかけたまま、お断りの旨を伝えた。 祖母は方言で話している。新聞のお兄さんは去り際に言ったそうだ。 「ばあちゃん、ちゃんと戸締りして、知らん人が来たら開けたらいけんよ。」 新聞の勧誘に来たお兄さんも同じ土地の出身だったそうだ。自分が新聞の勧誘に来たのにも関わらず、知らん人が来たら開けたらいけんよ、と心配をしてくれた。 おかしいのに、なんだか嬉しいね、そう言って私たちはそのエピソードを笑った。

祖母はある日倒れて頭を打ち、そのまま倒れていた所を父が偶然見つけ、病院へ搬送された。 倒れて打ったからなのか、出血したから倒れたのかはわからないが、軽い脳出血があり、数日を緊急用の病室(ナースセンターの目の前にある場所)で過ごしたが、その時の状況の激変に混乱し、一時的に認知症を発症した。 脳出血は止まり、骨折していた腰の骨もくっついたが、その治療を受けている間に、祖母の認知症は一時的なものではなくなった。 病院の対応が悪かったのではないと思う。 頭を打った事よりも、見知らぬ病院でよくわからない状況が続き、骨折の為のギプスがとても痛いけれど取る事が出来ない。そうした変化が一度に起きた事は誰にもどうする事も出来なかったし、その行方もただ見守るしかなかった。

外科的な治療が終われば病院には居られない。在宅の介護は難しかった。母はいくつもの施設への入居手続きと、入居待ちの審査の時間とに神経がすり減っていたと思う。 幸い、近隣の介護施設への入居が決まり、1年ほど祖母はそこで過ごした。 その頃はほとんど認知症は進み、母の名前もたまに出てくるか出てこないかという状態だった。 冬の朝、祖母は施設で眠るように亡くなった。

悲しい話に見えるだろうか。そうなってしまったら、それは私の文が下手なだけなのだが、こうした日々を生きること、変化が突然に起きた事(突然と言っても、祖母はもう90を越えていたので、いつかは何らかの形であったのだ)、そして静かに死が来た事、これは老いた人間なら誰しもが通る当たり前の道なのだと思う。 もちろん、当たり前だから悲しくないわけではない。ただ、祖母はこちらへやって来てから倒れるまでの間、毎日を当たり前のように大事に充足して過ごし、亡骸の顔はゆっくりと眠るように綺麗だった。

最近、老いた者(具体的には父母)のこれからの行方について、少し考える。 死は必ずしも安らかにやってくるものではない。 長生きしてよとは願うが、願おうが祈ろうが、老いの末の死は必ずやってくる。 祖母は10年近くも病気をした祖父の面倒を見て、何度も「病気で長く伏せるのはいやね。コロッと死にたかね」と繰り返していた。その顔は死ぬ事への希求など微塵もなく、極めて現実的な希望を述べている顔だった。 ある日突然倒れて、そのまま亡くなるかもしれない。 病気が見つかり、長い入院生活になるかもしれない。 認知症が発露し、徐々に生活を変えていく必要があるかもしれない。 いずれも悲劇ではない。ごく当たり前の、どこにでもある当たり前の、老いた者の死の行方だ。

私は昔は、頼る存在、両親が亡くなった後の事を考えた事がなかった。 正確には、地に足がついた形で考えた事がなかった。 父母が居なくなったら、きっといつか生きていけなくなる時が来る。そうしたら、自分も死ねばよいのかな、 うつを患う前からぼんやりと、そんな雲の中をふわふわ歩くような考えでいたのだ。

今日、盆の終わりの祖母の質素な仏壇にあるぼんぼりと、たくさんの果物、昨日私があげたお線香の灰を見ながら、 父、母が亡くなった後、こうして盆の季節に、同じようにして偲ぶ事が出来たらいいなと思った。

まだそれはぐにゃぐにゃの雲の中の話かもしれない。かもしれないが、亡くなった後はどうすれば良いかわからない、最悪自分も死ねばよいのだという考えよりは、現実的な気がするのだ。

とても前向きに考えたら、ずっと動いていないと思っていた私の現実の時間が、ほんの少しだけ、動いている事のあらわれなのかもしれない。

あまりにも変わらぬ日々が続いているので、私のペースというものを改めて感じ直したい。 今の住居(祖母が亡くなった後、そちらへ越したのである)が「私の居場所だ」と思える事が、引っ越した1年目はまるで出来なかった。 その事は大きく、希死念慮を抱く一因にはなり、何度目かの入院をした。入院生活も楽とは程遠かった。 2年目は入院をせずに、うつの寛解もまったくないが希死念慮に苛まれる事は幸いなく、少しだけこの住居は「私の居場所」になった。 今年はベランダから花火を見た。同じく花火を見ている人たちと、たわいもない世間話を少しだけした。花火はとても綺麗だった。 たくさんの時間がかかっているが、少しづつ、少しづつ、私の居場所は居場所になっているのではないか。 そうであれば喜ばしい。1年単位でも、それが私に必要な時間なら、それできっと構わないのだ。