人々を乖離させる幻想

世間一般という、ありそうで本当は実在しない水準から見れば、私の今の暮らしの状態は芳しくはないだろう。 「普通」「みんな」「多数」「一般的」、これらの言葉はなにもまやかしでは無いけれど、人は例外なく全員が異なる個体である事を差っ引いて、拾える数値だけで計算した、単なる「平均値(アベレージ)」だ。 「平均値」は何かの目的の為に割り出された指標であって、実体を伴って存在するわけでは無い。 目的を持って割り出された数字であるから、指標として使うのは間違いではない。ただ、あまりに言葉があたかも実在するかのように働いて、大体の人に悪い方に作用する。 「普通」ではない、「みんな」とは違う、「一般的」ではない、という考えを、毎日どこかで耳にする幻想のアベレージによって私達は植えつけられていく。

生きていて辛くない人というのは存在せず、生きているからには人は何かが辛い。 辛さの受け止め方自体が異なると、「辛い」という言葉ですらも疎通が出来なかったりする。

まだ「普通」という幻の中にいて、そもそも生きていると辛いことが起きるのだとあまり気づいていない人もいる。 そこに年齢は実は関係がない。若くてもそれは幻だと理解している人もいれば、年老いても尚幻に囚われ続ける人もいる。 幻想の中にいる場合、辛さとは突然我が身にだけ不幸が降って湧いたかのように感じる。なぜ自分がこんな目に合うのかという理不尽さで心が轟々と乱れる。 もう12、3年も前の事だが、初めに私が鬱状態に陥った時はまさしくこうだった。その幻想から完全に脱却できたかのかどうか、私はやや口籠る。そのくらいは、人によって向き合うのに時間を要する。

「普通」とか「みんな」という言葉は、概念であって実在するものではないのだと何らかの形で体験し、できれば昇華し、あるいはまだ体内に引きずったまま、とにかくそれを知った後の生き方は、ほんの僅かに少しだけ、辛さと共存ができるような気がする。 苦痛や苦しみを経てもなお生きていく為には、そもそもその辛さを体験しなければ分からない。 そして、共存できるからと言って、辛いことが辛くないわけではない。辛いものは辛い。 ただ単に、一人の個として、誰と比べる事もなく、自分に起きている事実として捉え易くなる。アベレージの幻想から離れて、他者がどうかを気にする事なく、今の自分の状態として、一対一で向き合えるように思う。 辛さを本当に分離できてしまう生き方をする人も世の中にはいるが、私はおそらく辛さとは寄り添って、我が身の一部としてずっと共にしていくだろう。

ただし例外はある。希死念慮だ。 これは完全に個人の受け止め方や向い方の問題ではない。 100%、苦痛のあまり脳がもたらす「状態と症状」だ。 風邪の時に熱が出る。関節が痛む。それを意志の力では止める事はできない。風邪の時に仕組みがあって発生している「症状」だからだ。 生命は残酷なまでに現実に属している。 意志の力で脳はシャットダウンできないし、どんなに強く願っても心臓を止める事はできない。死を望むだけでは何も起きない。失神すら不可能だ。生きている身体は意志とは無関係に活動をし続ける。 つまりは、風邪による頭痛と同じ処置が必要なのだ。 どこでも構わないから病院へ駆け込んでいい。今にも死にそうだ、何をどうしたらいいかも分からないと、言葉がめちゃくちゃでも何でも、ありのままを伝えればいい。カウンセラーなどに話を聞いてもらえなくて構わない。思った事を吐露していい。今抱えている大き過ぎて収拾がつかなくなった、絶えず背負っている絶望の事はその時考えなくていい。生きている事が辛い理由が沢山あることは、「死を望む風邪」の症状が去ってからでいいのだ。 専門の病院では、そういった状態の人へ緊急にまず何をしたらいいかをちゃんと知っている。何もかもスムーズに運ぶわけではないが、少なくとも彼らにはそうした状態にある人たちの精神状態と、まずすべき処置がわかっている。少なくとも、「命を大事にして下さい、死ぬなんて言わないで」だの、傷口に塩を塗り込むような愚かな真似はしてこない。 この状態で一番すべきなのは「最も苦痛な風邪の症状への処置」なのだ。 他にたくさん背負っている全ての苦痛の事は、その時は忘れていい。処置は恐ろしいものではない、電気ショックを与えるような時代は去ったのだ。 抱えている絶望を全て一度に考えなくていい。どうもしなくていい。 一番ひどい「死を望む風邪」の症状が落ち着いてから、さらに時間をかけて、大きな一つに見える辛さのかたまりをゆっくり分解し、ごま粒のように一個ずつじわじわと向かい合えばいいのだ。 激しく咳き込んで止まらない人に対して必要なのはまず咳止めだ。頭痛で頭が割れそうな人に必要なのは鎮痛薬だ。 咳が止まってから、他の辛い症状に、ゆっくり時間をかけて向かい合う。その時は専門家と他人の手を頼る必要がある。 希死念慮は「病気によってもたらされる症状」なのだから、症状を落ち着かせる為、落ち着いた後にどうするのかについては、専門の医師と薬は必要なのだ。

日本語のあやというわけでもなさそうだが、希死念慮を持つ人がぼんやりと心に浮かべる言葉が「死にたい」なので、私はこの表現が、希死念慮が理解できない人との隔絶をもたらすよくない表現だと常々感じる。 「死にたい」と思うことが悪いのではない。 その言葉のまんまの意味として捉えては、実際の状態と非常に乖離が激しいのだ。真逆と言っていい程だ。 「死にたい」は正確な表現ではない。世の中で「死にたくて」亡くなっている人は皆無だ。

「死にたい」のではない。 「生きている一分一秒が耐えられない苦痛に満ちていて、その苦痛から逃れる唯一の方法が、己の死しか思い浮かばない」状態である、というのが本質だと思う。 もはや生きている事が苦痛過ぎて、死をもってしかその苦痛から逃れる方法が思い浮かばない状態なのだ。 死を望んでいるのではない。あまりに辛くてもう一日も生きていたくないから、生きることを終わらせる手段として死を選ぶしかないと思うのだ。死を積極的に望んでいるのではない。 それしか逃れる方法が思い浮かばない精神状態なのだ。 (思考狭窄が起きていて、一人では抜け出せない。)

「死にたい」という、あたかも死へ憧れてそれ自体を望むことが本心であるような捉え方をされる事は多いと感じる。 公共の場で自死を果たしたり、未遂に終わったりする時、その人に心を寄り添わせてくれる人は極端に少ない。 「死にたいなら迷惑をかけずに一人で死ねばいいのに」という言葉を、幾度となく耳にする機会があった。死にたいという精神状態に陥らなければその感覚は理解されないので、言葉の通り「死にたいから望み通り死んだんだな」と受け止められるのだ。実際、その精神状態に陥った人がそのまま遂げてしまえば、それは死にたい故の行動ではないのだ、まったく意味が違う事だったのだと、生きている人に対して伝える事ができない。 なので理解の溝は埋まる事がない。 そうした体験がない人とは、たった四文字「死にたい」というシンプルな日本語の意味に、こんなにも、こんなにも乖離がある。珍しい事でもなんでもなく、当たり前のようにその乖離は溢れていて、いつまでも埋まらない。

「死にたい」のではない。「生きていたくない」のだ。 死を望むことは、もう生きていたくない「手段」として最終的に具体的な方法として思い浮かぶ「症状」だ。 あたかも自ら死を希求するかのような表現はどうして無くならないのだろうか。例えば「自殺願望」。精神的な状態の一つとして、希死念慮とは別の状態なのかもしれないが、とんだ誤解を生む言葉だ。 一言一句が、まるで死を自分の意志で望んでいるかのようだ。安易に死に対して憧れている様すら印象に受ける。 だから、その言葉をやっとの決意で口にした人へかけられる言葉も安易になる。命を粗末にするなんて言語道断だのなんだの。命を大切にして思い直せだのなんだの。あなたが死ぬと私が辛いだのなんだの。 全くのお門違いも甚だしい。認識の乖離とはこんなにも、生きている一瞬、この今の瞬間が苦痛でたまらないでいる人を、まるで谷底へ突き落として、苦痛の生傷をさらに無知なのこぎりでずたずたに何度も引き裂くような、しかもそれを善意だと思っている言葉を引き出すのだ。

5年ほど前、最も私の希死念慮が酷かった時に両親にかけられた、あなたが死んでしまうと私達が辛い、という言葉を聞いた時、鼻で笑う程に嫌悪し呆れた。目の前で話しているのに、こんなにも遠い。あなた達の辛さの為に、本当は望んでない死しか手段がもうない私に生きてく欲しいだと?私の選びたくもない死が、私ではないあなた達の苦痛になるから止めてくれだと?どんなに親身に思われていた言葉だとしたって、認識の乖離とは、時に本当に、船から駄目押しで夜の深海に突き落とされるような、より絶望を深めるような残酷な言葉をもたらすのだ。

重い重い風邪にかかっている時に、「高熱願望」なんて言葉は出てくるだろうか? 高熱にうなされたくて自ら望む人はいるのだろうか。熱を出したくて出せるものだろうか。

体験のない事を全て想像し理解しろ、と他人に求めるのは不可能だ。世の中の人は大抵が、それぞれ異なる形の辛さを持って生きている。その形を自分もまた想像する事も理解もできない以上、それは個人的に向き合っていくものなのだと思う。

乖離は取り返しのつかない溝ではない。 とりあえず希死念慮がおさまってから考えればよいような事は沢山あるのだ。 抱えた問題を一度に背負う必要はない。 まずは一分一秒を苦しめる希死念慮を治める。おさまった所で、真逆に位置する生への欲求がすぐに出てくるわけではない。とりあえず、生きていても常に苦痛があって、そこから逃れるための死、という手段が少しずつ遠ざかっていけばいい。その後に何もかもゆっくり考えればいい。

私はようやくこの3年程で希死念慮自体は治まったが、依然として積極的に生きていこうという意志はまだないままだ。 咄嗟に「死にたくない」という本能的な生命力がない。それでも希死念慮の苦痛が無いだけで、あれやこれやと頭でっかちな事を考え、個として辛いことを同居する家族が各々関係なく持ちながら、折り合いをつけたり、そうでもなかったりして過ごせている。

いきなり何もかも好転したりはしない。苦痛、苦悩、自暴自棄、逃避、諦観、そんなものの連続だ。 それで構わないと言い聞かせてて過ごしている。欺瞞ではない。頭でっかちなので、実態として受け入れたつもりがそうでなかったような事があってたびたび落ち込んでは、これが今の私の手のひらで掬える水の量なのだと心身を持って実感する。 間違いも失敗も何度もする。その度に具合が悪くなり寝込む。そんな自分が嫌いで、同時にその寝込む自分、手のひらにたった一杯の水しか掬えない自分をひたすらに見つめ、泣こうが喚こうが、今ここにあるこの形が、死なずに生きてこられた我が身の姿なのだと、しげしげと内側から手を這わせて感じる。 幻想を見ている暇が無くなった事で見える事もある。少しだけいろいろなものをアベレージで見なくなっていく。 ごく普通の人、一般的な人、世の中の大多数の人など、というのは全て概念で、みな大小さまざまの傷があって、痛みと苦悩の中で生きている。他人の生きている様子が簡単に分かるわけがないので、私も私として、その苦痛や痛みを他人に知られる事を欲することなく、できる範囲の事をして生きている。 ありがたくも死なずに済んでいる、という表現の方が近いかもしれない。だが、どのみち死のうと思わず、死なずにいられているので、少しくらいはそれを「生きている」と呼んでもいいじゃないだろうか。

24.0cmの足裏から

これはまた久しぶりになった。 前回の記事から2年近く経っている。 大きな一歩もなければ大きく失うものもなく、何よりありがたい事に生きている。

我が家の黒いねこは2017年10月19日、前回の記事の10日後、推定16歳で亡くなった。自宅で最期を看取った。 ねこは希望に満ちた目はしていなかったが、絶望の目もしていなかった。最期までただ生き続けていた。蝋燭の火がもう燃えることができなくなるまで燃えて、蝋燭の全てを燃やしてから亡くなった。 決して楽な死に際には見えなかったが、死ぬことは生きることのそのままの延長にあるように思えた。 動物は自ら死を選ばない。だから生きられなくなった結果としての死であった。それくらい常に生命活動を続けようとしていた。 歯が痛くて水が飲めない時も、水場の前までよろめきながら移動して、水の目の前で飲めないと言って抗議するように鳴いた。 死を知らないように鳴いた。生きる事は何にも阻まれることのない当然のことで、それが続けられないことへの不満のように鳴いた。 最期まで燃える命のかたまりだった。 沢山のものを貰った。貰うばかりだった。 家へ引き取ってきて16年の間に、少しは彼女に返せたものがあったろうか。

もう片方の縞模様のねこは、推定18歳になった。さすがに老猫なので一日を寝て過ごす時間が多くなったが、まだ自らの口でご飯を食べ、水を飲み、排泄をする。 知覚は少し鈍ったようだが、人を認識し、甘える様は子供の頃と変わらない。 きっと彼女も黒いねこのように過ごすだろう。 飼い猫として側に置かせてもらっている以上は、人が与えうる最大限を尽くして、最期の時まで絶対的な安心で包んでいたい。 死と相対するのは彼女自身であり、どれだけ願っても私はその苦しみを代わりに受け持つ事は出来ないからだ。ならば、変わらずに最期の時も側に居たいと思う。そういうことくらいしか出来ない。 何とも無力なものだ。

大きな一歩はないと書いたが、正確に言えば、文字にすればほんの少しだが、私にとってはまるで停滞の中にあったこの数年の中ではかなり大きな変化があった。

うつを患ってからは精神科の病院へ通院をしている。今の病院は2つ目で、そしてもう長い付き合いになる。 3週間に一度、自動車でおよそ30分程度の距離にある、小さな病院へ行く。 幸い先生とは長年かけて信頼を築く事ができた。 心の病、その延長としての生活の相談、そういった話が信頼できる医師に話せるのは大事なことだ。 医師である必要は必ずしもないかもしれないが、何にせよ「1人で抱えこまないでいられる」という事が重要だ。 私のかかりつけの医師は、決して優しく何でも聞いてくれるような人ではない。私が頭の中でばかり結論を出す傾向にあることまで見抜いた上で、常に在り方に疑問を投げかけてくれる。 出来ていると思い込んで地に足がついていない事はないか。逆に、出来ているとすんなり肯定すれば良いことを「こんなたわいもないこと」と思っていないか。 一度出来ていた事が出来ない状態になった時、再び出来た時に「出来た」という達成感・肯定感を得るのは難しい。何故ならそれは「本来出来て当たり前のこと」であり、むしろ「本当はこれが出来ていなければならないのに」とマイナスにすら捉えてしまう。 それは、現在の自分が「前に出来ていた自分ではなくなっている」ことを、本質的に自ら受け入れられていない為だ。 こんな事もできない自分を認めたくないから、出来たことに対して純粋に肯定できないのだ。 (少なくとも私はその傾向がとても強い。)

医師との話の中で、私は繰り返し「前の自分とは違う今の自分」をありのまま見つめ、そして「是も非もなくただ受け入れる」事をずっと努めている。 言葉にすれば容易に見えるが、私には数年以上かかって、ようやく実感が見えたか見えないか、という程度には困難なことだ。

前置きが長くなったが、つまり私にとっての日常はほとんどそんなペースでできている。 3週間に一度、外へ出かけて通院し、帰ってくる。 外出はほぼそれのみだ。

それは今も変わらないのだが、一つだけ変わった事がある。 本当は書くのがだいぶ恥ずかしい。 だが、多くの人や過去の自分には当たり前かもしれないが、今の私には長らく出来ていなかったことだ。 通院の時、同居している老齢の父に車で送迎してもらっていたのを、バスでの移動に変えることができたのだ。

今年の4月、父が前立腺の手術で入院する事になった。それを受けて、私は通院の手段をバスにしようと試みた。 父が入院して物理的に居ないことに加え、今後も何かあった時の為に通院は一人でバスで行けるようになる必要があった。 父の手術は無事に終わったが、それはそれとして私の通院の日が近づくにつれて別の緊張が増した。 寝付けない。日中に起きられるだろうか。間に合わなかったらどうしようか。 不安と焦りに満ちてはいたが、何とか初めてのバス通院を終える事ができた。 その時の、得も言われぬような達成感。 誰の手を借りる事もなく、私1人で私の都合である病院へ行き、そして帰って来られたという事が、この上ない達成感として全身に満ち満ちた。

こんな感覚はもう何年も無かった。嬉しさを噛み締めた。 ようやく私は、頭の中ではなく、体感として「今の自分に出来る事」を実施し、喜べたのだ。

それ以来、バスでの通院を続けることを試みている。期待値はなるべく抑え、ハードルは低くしておく。 バスでの通院が途切れてしまっても落ち込まないこと。続けることを優先に考えないこと。 バスで通院するという手段を目的にしないこと。 その上で、通院できた時に感じる気持ちを大事にする。 4月、5月、6月、7月、8月。 この記事の下書きを途中まで書いていたのは、実は7月の通院から帰ってくる道中だった。 長らく続きを書くことが出来ないでいたものを再び動かす程度には、私の中に小さな力が微かに溜まってきたのではないだろうか。そうであったならとても嬉しい。 ほとんど月に一度だが、車で送迎してもらっていた頃とはまるで違う季節の感じ方をする。 小さな花が美しい。初夏は夏の鳥が鳴いている。今は蝉の声が、降り注ぐ生き物の讃歌のようだ。 じっとりと蒸す空気を皮膚の全てで感じる。 自ら外に出ているという喜びで、心が浮き立つように軽やかになる。 アベリアには蜂もスカシバもいる。シオカラトンボが花の終わったツツジにとまっている。そういった光景に目を向ける事ができる。 拭っても拭っても汗が滲み滴り落ちる。全身で喜びに涙しているようだ。

最後に入院していた時が精神状態として一番悪く、本当に帰宅したらその足で吊ってしまいそうな程、頭は逼迫していた。 入院中にコンビニへ要り用なものを買いに出かけた時、真っ青に晴れる晴天の日差しは、まるで黒い雨のように背中を叩きつけた。 コンビニまで一人で歩いている時、私が生きていられる場所はこの世にこの2つの足の裏にだけしかないと感じていた。 足跡は付かずすぐに消えていく。立っているその足の裏だけが私の生きる世界だった。

退院から一年、二年が経ち、私は何とか生きることができた。今思えばそれだけで快挙なのだが、当時はそんな自分を褒める事も認める事も余裕がなく、ただ辛く思い詰めずに済んでいるという事にだけ感謝していた。いや、その時はそれが私にできる最大の範囲だったのだろう。 足の裏だけの世界から、ようやく自室、そして家の中まで、私が生きていられる場所が広がった。

2019年の4月になって、ようやくその小さい変化があったことで、今、私の世界は家の中から家の周囲、バスで移動できる病院までの間まで、広がりつつある。

緊張していたバスの中から、外を見る余裕が出てくるようになった。 病院へ向かう為に家を出て鍵をかける時にうきうきするようになった。 帰りの道で景色を見る回数が増えた。 今年も暑すぎる夏だが、涙が出るように全てが美しい。曇天の雲の厚さ。薄い青空の遠さ。湯の中を泳いでいるような熱い空気。汗が首筋を伝って服を濡らす感覚。刈られても尚逞しく伸びていく草花。雨音。傘の端から垂れてくる大つぶの雫。 外気温を皮膚で感じているからこんなに汗が出るのだ。今自分は外に出られていると実感する。

勿論、先に書いたように、何かの拍子でまた困難はやってくるかもしれない。続けられると驕らず、しかし卑下もせず、日々できる事を誰とも比べずにただ積み重ねていこう。 困難は来た時に考えよう。決して1人で頭に抱えることなく。

帰宅の時、歩いて来た道を振り返る。 晴天の時も、曇天の時も、夕闇に何も見えない時でも、 以前は幻のようにすぐにかき消えていた足跡が、歩いてきた帰り道にたくさん形として残っていて、だんだんと私が歩くことができている場所の形を成しているのが見える。 滴る汗は足裏から大地に滲み、見えなくとも小さな根を張って地下に留まり続ける。 そうして足裏にしかなかった世界が徐々に形を変えていく。 身体は喜びに涙して汗をかき、私は冷えた麦茶を命の源のように、喉を鳴らしていっぱいに飲み干す。

燃える命のかたまりの、その火が静かに消えるまで

またしても閑話休題である。 私自身の生活には劇的な寛解も、劇的な悪化も無いからである。

唐突だが、うちには猫が2匹いる。 今年で16歳だ。歳で言えばいわゆる老体だが、ここからさらに20歳まで生きる個体もいるのだから、本当の動物の寿命の一般論などは存外あてにならないのかもしれない。

そうは言ってもやはり老体は老体だ。 昔のようにおもちゃで遊ぶ事も無くなったし、じっと寝ている時間も増えた。 猫は老体になると腎臓を患う率がとても高い。 2匹のうち片方はまだ歳の割には元気と言える値を保っているが、もう片方はだいぶ前に病院で検査をした時には既に「数値から見れば入院と定期的な通院が必要」な状態だった。

猫に限らず、言葉で意思疎通を図る事が出来ない動物はみな、どんなにそれが「本人のためであっても」、それが「本人に伝わる事」はない。 大抵の動物がそうであるように、我が家の猫も大変に病院が嫌いだ。 何をされるわけでなくても、ただ「いつもと違う場所へ連れていかれ、よくわからないが不安な事をされる」という事への恐怖が強いのだろう。 ただの健康診断であろうが、さほど痛くはないはずの検査であろうが、とにかく2匹ともに、診察台の上で恐怖にぶるぶると小刻みに震え、台に水滴がつくほど手に汗をかいて固まってしまう。 それが命のためにどんなに必要な事でも、彼女らにとっては「通院そのもの」がとてつもないストレスなのだ。

動物病院というのも、乱暴な言い方をすれば「当たり外れ」が大きい。 数値を見て、治療が必要なので一週間連れて来てくれという診断は、間違ってはいない。 だがその一週間は、通院そのものが耐え難いストレスの子には、症状以上のストレスになった。 その時には一度、通院を諦めた事がある。 本人の命のために必要でも、毛を逆立て、威嚇と恐怖の鳴き声をあげて抵抗し、最後は失禁をして病院へ行くのを嫌がる姿が、もう「本当に必要な治療」だとは思えなかった。 自分の家が一番好きなのだ。どこへも行かず落ち着く場所で、好きな事をして日々を最後まで過ごす。 それでいいのではないかと思った。

それから幸いにも、その片方の子はずっとそうして家で過ごして来た。命の危険があると前の病院で言われ、通院をやめてから7〜8年は過ごして来た。 ある時、急にご飯やお水を飲食しなくなり、ぐったりとした。家で好きに過ごさせよう、そう決めていても、ぐったりした姿をそのまま何もせずに見守る事は難しかった。 結局、前とは別の最寄の動物病院へ新しく連れて行った。

その病院の先生は優しかった。口調や態度だけではなくて、「飼い主たる人と、老いの為に弱っていく動物」の両方に優しかった。 猫が緊張と恐怖で震え固まっている様子を見て、その時の処置、及び今後についての「獣医として」の意見を申し出てくれた。 数値で見れば、すぐに入院をさせて点滴の生活をするような状態です。 でも、それはこの子に取って大きなストレスになるし、点滴で栄養が摂れても、自力でご飯を食べない子も居ます。それでは結局、長い目で見れば治療が進んだとは言い難いです。

その獣医さんは、通院した時の処置(点滴や注射)はしたものの、「ずっと通院を続けるのはストレスの話を聞くと難しいし、猫ちゃん自身の様子を見て、どうするのかは飼い主さんが判断して下さい」と言った。 老体の猫が完全に持っている疾患を治す事などできない。ましてや、通院自体がストレスになっている子もいる。 そういう場合は、「病院に連れてくるかどうかは、猫ちゃんの具合を見て、飼い主さんが判断をして下さい」と。

もしかすると、それは単に人のエゴなのかもしれない。適切な治療をしてあげられない事を専門家から言ってもらう事で、赦されたように感じているだけなのかもしれない。 それでも、連れていく相手は人の言葉の通じない、「彼女の時間」を生きている、人の都合も、自分の身体の都合も知らぬ、丸まんまの燃える命のかたまりなのだ。 言って聞かせられるのなら、病院での治療はどれだけ有効なのか、治療食がどんなに不味くても身体の為になるのか、飲み薬を飲む事で身体が楽になるのかを説こう。 それが絶対に不可能なのだ。その時どうするか。 全てが飼い主に委ねられる。 本当に必要な事は何か。その決定をしなければならない。

命のかたまりは温かくて、弱っているというのに目は黒々とガラス玉のように透き通って輝いていて、呼べば少しだけ覇気の落ちた声でいつものように応える。柔らかい身体の中にどんな苦しみがあるのか、見た目にはわからない。彼女の好きな寝床に横たわってじっとしている。

人でも動物でも、死は決して唐突なものではない。その最後が病や老いによるものなら尚更だ。 それは日々の時間の中、ゆっくりゆっくり進んで、老いへの歩みをまるで見ているかのように感じる時がある。 だが同時に、それが「死本来の歩みの速度」であるような気もするのだ。

急速な衰えでもなく、唐突な事故でもなく、ゆっくりと、ゆっくりと、燃える命の火が小さくなっていく。 実際の老いによる死への道はそんなに詩的なものではない。唐突に思える事だって沢山ある。 ここ数日吐く回数が増えた、床に寝そべる事が増えた、立ったり座っていられる体力がなくなっているのだ、食べたものではなくただ何度も胃液だけを吐く。 見ていて穏やかなものなどない。老いて死が近いかもしれない本人が一番苦しいであろうが、老いのせい、死が近いせいと割り切って、側で何も考えずに見ていられるわけでもないのだ。現に、猫でもなく私が寝込んでしまったり、あれこれを考えて心が悲しみで何も手につかなくなったり、そんな事をしたってどうにかなるわけでもない事を繰り返している。この文章だって、書いているのは夜中の4時過ぎだ。

それでも、あの大切で愛してやまない命のかたまりが、あまりにも燃えているような爛々とした瞳で見つめてくるので、 苦しみのない大往生などない、最後は苦痛もあると知った上で、そのともし火の最後を見届けようと思う。苦しむ姿から目を背ける事なく、最後までできる事をしようと思う。できる事が何もなくても。 特別な事ではなく、当たり前のように過ぎていく老いと死への一日一日を、そうやって過ごしていきたい。

お盆なので

母方の祖母が亡くなって2年ほどが経つ。 祖母の縁故の方々から、立派な房の葡萄や大きな桃など、季節の果物を頂いた。

お盆なので、というにはこじつけた感じがあるが、何だか眠れないので、私のうつの話とはあまり関係ないが、祖母の話をしても良いだろうか。

祖母は8〜9年ほど前、母方の生まれの地方から1人で関東へやって来た。 長年病気の祖父の看病をしており、その祖父が亡くなったのと、 離れた土地での独り暮らしはこの先は何かと困る事もあるだろう、という事で、 祖母にとっては馴染み深い故郷から、関東の父母(と、同居している私)のすぐ近くの住居へと呼び、了承して来てくれたのだ。

母と父と私の住む家に祖母も同居する事は可能だったが、父が計らってくれて、ごく近くに別の住居を用意し、そこに祖母が独り暮らしをする形をとった。祖母は祖父が亡くなった後でも、自炊をし、買い物をし、独りで自活ができる状態だったからだ。 父母と同居している私が言うのもおかしいが、親子とはいえ、生活が既に確立した者同士が同居するのは一見楽なようでいて、そうではない。 台所の使い勝手、物の買い方、作る食事、過ごしたい時間、例え祖母と母が親子であっても、「1人で過ごしたい時間」というのは誰にでもあり、それを守るのが可能な場合はそうした方が良いのだろう。 祖母は1人で日々を送り、たまに私達と食事をする、そんな距離感の生活がとても合っているようだった。

びっくりしたのは祖母の独り暮らしの充実っぷりだ。 祖母はまだ母が幼い頃、生活費の為に、遠方へ出かけ、いわゆるお針子さんや女中さんのような仕事をしていた。 その当時は仕事は決して楽ではなかったろうが、結果として、祖母はとても炊事や洗濯、縫い物などが上手であり、それを苦とする人ではなかった。

祖母は祖父が亡くなった後もしばらくは独り暮らしをしていた為、買い物から自活まで、全てをじっくりと自分の一部として過ごしていたのだなと感じた。

祖母の住まいとして用意した家は、祖母が1人で住むには少し大きかった。 そして、祖母はとても綺麗好きで、整頓や掃除が趣味のような人だった。

「部屋がたくさんあって、一ぺんには掃除しきらんけん、今日はこの部屋、明日はお風呂、って毎日決めてするんよ。」

祖母はテレビも大好きだった。 朝起きると新聞のテレビ欄を見て、「今日は何時からこれを見る」と赤マルを付けておくのだ。 祖母はとてもミーハーで、芸能人のバラエティ番組や、有名なスポーツ選手が出る番組(おそらくそのスポーツ自体と言うよりも、スポーツ選手が好きなのだろう)を好んで見ていた。 祖母の家へ私達が言って夕食を食べた時も、私達の家に祖母を呼んで夕食を食べた時も、「ご飯はみんなで食ぶっとおいしかね」と繰り返し喜んだ後、きちんと「9時から見たいテレビがあるけん、帰るね」と言って、祖母の時間もちゃんと満喫していた。

近所のスーパーには毎日寄って、じっくり品を見るのが好きだった。この魚はどこから来た、この鶏肉はどこから来た、商品としての価値を見比べる為というよりも、それを知る事自体が好きなようだった。 そうして毎日少しだけ買い物をして、1日で綺麗に食べ終える量の丁寧な食事を作った。煮物などは量が多くなるので、作った時はうちへと分けてくれた。 料理が上手ではない母とは全く違う、派手でなくてもとても味が染みていて、切った芋や大根は面取りがきっちりされている美味しい煮物だった。 母が夕食を作り過ぎたのを持っていく時も、なんでも「食べるよ〜」と言って、お昼ご飯やその日の夕食に食べてくれていた。 そして渡した食器は見事に梱包されて帰ってきた。気遣う仲ではないのだが、それは祖母の癖なのだろう。

祖母はこちらへ来てから、立ち寄る店ごとに知り合いがどんどん増えていった。人当たりが良く、素朴で嫌味のない雰囲気が好かれたのだろうと思う。 気づけば近所の小さな雑貨店の店員さん(名前まで知り合う仲である!)、スーパーのレジの人(これまた名前を知り合う仲)、整骨院で知り合った人、隣に住むご近所の方々、祖母の住居群の掃除をしているおばさん達(祖母は雑巾を綺麗に縫って、あげていたのだという)、 びっくりするほど多くの知り合いが祖母の周りには居た。 長くこの土地に住んでいる私ですら、そんな交友関係は全くない。 ひとえに祖母の人柄だったのだろう。

ある時は、新聞の勧誘のお兄さんが祖母の家に来た。祖母はちゃんと鍵をかけたまま、お断りの旨を伝えた。 祖母は方言で話している。新聞のお兄さんは去り際に言ったそうだ。 「ばあちゃん、ちゃんと戸締りして、知らん人が来たら開けたらいけんよ。」 新聞の勧誘に来たお兄さんも同じ土地の出身だったそうだ。自分が新聞の勧誘に来たのにも関わらず、知らん人が来たら開けたらいけんよ、と心配をしてくれた。 おかしいのに、なんだか嬉しいね、そう言って私たちはそのエピソードを笑った。

祖母はある日倒れて頭を打ち、そのまま倒れていた所を父が偶然見つけ、病院へ搬送された。 倒れて打ったからなのか、出血したから倒れたのかはわからないが、軽い脳出血があり、数日を緊急用の病室(ナースセンターの目の前にある場所)で過ごしたが、その時の状況の激変に混乱し、一時的に認知症を発症した。 脳出血は止まり、骨折していた腰の骨もくっついたが、その治療を受けている間に、祖母の認知症は一時的なものではなくなった。 病院の対応が悪かったのではないと思う。 頭を打った事よりも、見知らぬ病院でよくわからない状況が続き、骨折の為のギプスがとても痛いけれど取る事が出来ない。そうした変化が一度に起きた事は誰にもどうする事も出来なかったし、その行方もただ見守るしかなかった。

外科的な治療が終われば病院には居られない。在宅の介護は難しかった。母はいくつもの施設への入居手続きと、入居待ちの審査の時間とに神経がすり減っていたと思う。 幸い、近隣の介護施設への入居が決まり、1年ほど祖母はそこで過ごした。 その頃はほとんど認知症は進み、母の名前もたまに出てくるか出てこないかという状態だった。 冬の朝、祖母は施設で眠るように亡くなった。

悲しい話に見えるだろうか。そうなってしまったら、それは私の文が下手なだけなのだが、こうした日々を生きること、変化が突然に起きた事(突然と言っても、祖母はもう90を越えていたので、いつかは何らかの形であったのだ)、そして静かに死が来た事、これは老いた人間なら誰しもが通る当たり前の道なのだと思う。 もちろん、当たり前だから悲しくないわけではない。ただ、祖母はこちらへやって来てから倒れるまでの間、毎日を当たり前のように大事に充足して過ごし、亡骸の顔はゆっくりと眠るように綺麗だった。

最近、老いた者(具体的には父母)のこれからの行方について、少し考える。 死は必ずしも安らかにやってくるものではない。 長生きしてよとは願うが、願おうが祈ろうが、老いの末の死は必ずやってくる。 祖母は10年近くも病気をした祖父の面倒を見て、何度も「病気で長く伏せるのはいやね。コロッと死にたかね」と繰り返していた。その顔は死ぬ事への希求など微塵もなく、極めて現実的な希望を述べている顔だった。 ある日突然倒れて、そのまま亡くなるかもしれない。 病気が見つかり、長い入院生活になるかもしれない。 認知症が発露し、徐々に生活を変えていく必要があるかもしれない。 いずれも悲劇ではない。ごく当たり前の、どこにでもある当たり前の、老いた者の死の行方だ。

私は昔は、頼る存在、両親が亡くなった後の事を考えた事がなかった。 正確には、地に足がついた形で考えた事がなかった。 父母が居なくなったら、きっといつか生きていけなくなる時が来る。そうしたら、自分も死ねばよいのかな、 うつを患う前からぼんやりと、そんな雲の中をふわふわ歩くような考えでいたのだ。

今日、盆の終わりの祖母の質素な仏壇にあるぼんぼりと、たくさんの果物、昨日私があげたお線香の灰を見ながら、 父、母が亡くなった後、こうして盆の季節に、同じようにして偲ぶ事が出来たらいいなと思った。

まだそれはぐにゃぐにゃの雲の中の話かもしれない。かもしれないが、亡くなった後はどうすれば良いかわからない、最悪自分も死ねばよいのだという考えよりは、現実的な気がするのだ。

とても前向きに考えたら、ずっと動いていないと思っていた私の現実の時間が、ほんの少しだけ、動いている事のあらわれなのかもしれない。

あまりにも変わらぬ日々が続いているので、私のペースというものを改めて感じ直したい。 今の住居(祖母が亡くなった後、そちらへ越したのである)が「私の居場所だ」と思える事が、引っ越した1年目はまるで出来なかった。 その事は大きく、希死念慮を抱く一因にはなり、何度目かの入院をした。入院生活も楽とは程遠かった。 2年目は入院をせずに、うつの寛解もまったくないが希死念慮に苛まれる事は幸いなく、少しだけこの住居は「私の居場所」になった。 今年はベランダから花火を見た。同じく花火を見ている人たちと、たわいもない世間話を少しだけした。花火はとても綺麗だった。 たくさんの時間がかかっているが、少しづつ、少しづつ、私の居場所は居場所になっているのではないか。 そうであれば喜ばしい。1年単位でも、それが私に必要な時間なら、それできっと構わないのだ。

今更のモラトリアム

2016年の12月は、「再度入院をせずに、ぼろぼろな生活ながらも、えっちらおっちらと日々を過ごして迎える事のできた初めての1年目」だった。

もちろん、具合が悪くなった時に然るべき場所へ入院するのは正しい治療法である。

ただ、1回、2回、3回…4回…と回を追うごとに連れ、「入院生活がまたやってくる事(正確には、良くなって戻ってきたって結局またここへ戻ってきてしまう、治療をしたってちっとも快方になんて向かっていないと痛感する事)」は、逃れられない絶望の象徴だった。だからまた入院する事は、とても怖かった。

 このブログを書き始めようと思った時の大きなきっかけは、「希死念慮は病のせいで起こる“症状”である」という事を、私自身が強く実感をしたので、それをどうしても伝えたかった事が根底にある。

その考え(希死念慮自死衝動、自殺企図)は、病の症状で起きているだけであり、「自分や、周りの人への罪悪感などを感じたりせずに、“最近頭痛がひどくてね”、と言うレベルで話しても良い事である」)は今も変わっていない。

 私は幸い、2015年の12月頃に退院をしてから、1年間、とんぼ返りの再入院をする事なく家での生活を過ごす事ができた。

ただ、それは「うつ状態から解放され、順調な快復が続いた」という事ではない。

長年続いていた抑うつ状態(気分変調症)の中で「希死念慮を感じる機会がほぼ無くなった1年」であった。

希死念慮自死衝動という、1分1秒が生きている事の苦しみでぼろぼろに首を絞められている状態ではなくなり、「元の長年来の、うつ状態に戻った」という感覚が近い。

つまり、私のうつ状態(広義)は寛解に向かったとは言い難く、現在でも、日々はぼんやりと過ぎていくだけだったり、ちょっとした事で寝込んだり、就寝や食事、外出のリズムが戻ったりした事もない。環境が許してくれる、ひとときのモラトリアムに戻っただけだ。

 また日数は空いてしまうかもしれないが、今度は私の、長く長く続いている、もはや日常となってしまった「うつを抱えた状態での日々の記録」を少しずつ綴っていければな、と思う。

 

昨日や今日、自死衝動に苛まれても実行には至らなかった人、

「至れなかった」でも構わない。

よく乗り越えたねと褒め讃えたい。

決して絶望が止んだわけではないだろう、また、私にはその絶望や苦しみを取り除くような力も無い。

ただただ、「今日死なないでいられた」事の努力(努力の結果だと感じていなくても構わない)を、私は100%手放しで褒めたい。

他でもないあなた自身がとても頑張った結果なのだ。受け身でもなんでもない。自ら1日分の生をちゃんと選択して、絶望の中からもぎ取ったのだ。

一年が経って

多忙だったり、大変具合が悪かったりしたわけでは無いが、またもかなりの期間のブランクが空いてしまった。

コメントやブックマークなどを頂いていた事も、つい最近知った。誠にありがたく、また、どうか何らかの助けになる事を心から願います。

 

自分でも読み返していて、一年前にこんなに希死念慮に苛まれて入院し、また絶望感を持ったまま退院し、そして現在までにどうやって希死念慮から完全に解放されたのか、ほとんど記憶にない。

一日一日をひたすらしのいで過ごしたのだろうという予想と、有り難くもあの恐ろしい感覚から解放された事によって、決して順調ではないが、少なくとも今の私は比較的「安定した」状態にいる。

具合や体調は安定してはいないが、その事に「一喜一憂したり、逐一焦る事が減ってきた」のは、体感だが、少しずつ増えてきたと思う。

そして多分、とても時間のかかるけれど、それが唯一の前へと進む方法なのだろうと感じる。

 

「うつの治療」、「病気の完治」がどういう状態を指すのか。

身体の疾患でも、未来の事まで含めて「絶対に再発はしない」「完全完治した」と断定できる病は、実はそんなに多くはないと思う。

ましてや精神の疾患は、判断となるような目に見える数値や病巣、具体的なものが何もない。

「うつは治る病気です」とよく耳にするが、半分は表現として正しく、また半分は正しくはないと思っている。

 

極端な話だが、「完治」なんてしなくても良いのだ。というより、これから先の未来の事も含めて、「完全に治った、再発はしない」と言い切れる事は、ネガティブな事ではなく、現実的に(精神疾患ではなくともあるのだから)あり得ないのだ。

だがそれは「絶望が途切れない」ということでは決してない。

前へと進む為の必要な時間、辛く苦しく、ひたすらに耐えるしかない時間、それは皆個々によって異なる。

一歩だけ前へ進む為に、10年を要する人もいるのだ。そしてそれは、全くおかしいことでも、時間の無駄でも無い。

私にとっての必要な10年であり、あなたにとっての必要な時間なのだ。

 

私が今、「希死念慮」というあの感覚に苛まれ、一分一秒をもがき苦しみ過ごしている人へほんの少しでも伝えられる事があるとすれば、

希死念慮を他人に伝える事は、悪い事ではなく、むしろ解放される為には必要な事なのだよ。何も悪い事ではないのだ。」という言葉です。

信頼のおける専門家、かかりつけの医師に相談をしてみる事は、とても恐ろしいけれど(否定され、受け入れられなかったらどうしようという罪悪感と不安を強く持っているからこそ、どうしても恐ろしくて打ち明けられないのだ)、相手が専門家であるなら、少なくとも希死念慮自死衝動については、「親身で身近な“素人”」よりは、遥かに適切な言葉をくれる可能性がある。

親身で身近な「素人」──それが家族や友人であればあるほど、「あの体験をした事のない」人ならば、自死衝動の告白に対して、本当に適切な判断や、リアクションや、言葉をかける事は難しい。

彼らはあなたを大事に思うからこそ、「自死」という言葉の表面的な恐ろしさをまず自分の感情として受け止めてしまい、「あなた」に対しての言葉が出せない。

「ショックだ」「どうかそんな(馬鹿な)事はやめて」「あなたが死んだら私が悲しむ」

これらは私が自死衝動を家族に伝えた時に実際に貰った言葉だが、どれ一つとしてその時私の救いになるものではなかった。

彼らには死を希求する体験がないから、当然といえば当然である。

思っている事は偽りなく「私(あなた)」の事であるが、死を希求する状態の苦痛を理解し、それに寄り添う事はできないのだ。

私たちが本当に救われる言葉というのは難しい。

ある人は「あなたを大事に思っていて、居なくなっては困るのだ」という言葉に救われる場合もある。

ある人は全く逆に、「私が居なくなって困る主張をされてもそれで一体私の何が楽になると?」と傷口を毟られたかのように追い討ちを受ける。

 

一つだけ、うろ覚えながらも覚えているのは、入院期間中、担当医師に、勇気を振り絞って希死念慮がある旨を伝えた時の医師の行動だった。

希死念慮がある。という事をやっとの思いで医師に伝えた時、医師は「いつもの診察と同じように」、相槌を打ち、「死にたいという気持ちを持っている事は“何でもない事である”」かのように、淡々と話を聞いてくれ、慎重になり過ぎる事もなく、不穏時の頓服を処方したのみで診察を終えた。

これには人によるのかもしれないが、少なくとも私の場合は、

希死念慮を持っている事を、まったく危機的な、緊急を要する異常な状態ではない」ように、「とても苦痛だが、今起きている“症状である”」と扱ってくれた事に、深く安堵したのだ。

死にたい、

死にたいと言う事にひどく罪悪感がある、

死にたい感情を持つ自身が嫌になる、

そういった事全てが、「後ろめたくなく、症状として話して良いこと」なのだ。

ずっと心に刻み続けるスティグマなどではない。

「今日は偏頭痛が一段とひどくて…」

そんな風に話して良い事なのだ。

 

希死念慮は「病の一つの症状」である事は間違いないと確信しているが、たった一人で、そこから脱出する事はとても難しい。

だから専門家による治療は必要である。

そして、治療を受ければ、即時という訳にはいかないが、「嵐が去ったかの如く、症状は去る。」

 

どうかあなたの背を叩き続ける黒い雨が、正しき人の助けを得て、一日でも早く止みますように。

 

雨が止んだ後に、薔薇色の生活のような都合の良いものがあるわけはないが、

空が綺麗だな。

とか、

綺麗な草木が生えている。

ご飯が少し美味しかった。

布団が暖かい。

秋が過ぎて、冬になってきたな。

 

そんなささやかな、でも、涙が出そうな程の、小さな小さな幸福が感じられる生活には、少しずつ近づけるのだから。

確信と、近況

前回のエントリーから相当な日数が経っていた。 この記録は、後半はほぼ、当時入院中であった時の家族とのやり取りに使っていた為、退院が迫っている…という所で途切れていた。 もしも家族以外でこのブログを閲覧して下さっていた方がいらしたのであれば、とてもありがたく、またもしかするとご心配をおかけしたかもしれない。

私は昨年11月末の退院後、無事に自宅へ戻る事ができ、本日まで再入院するような悪化も起きず、体調は良くはないけれど希死念慮を感じる事は皆無の日々を送れている。 退院から現在に至るまでかなり時間が空いてしまったので、どういった経過を経て現在の状態になったかほとんど覚えていないが、これで確信できた事がある。

希死念慮は“病気によってもたらされる症状(治るもの)の一つ”である。」

その“症状”がなくなる為の治療法や期間に、確実で即効性のあるものはない。 再びあの恐ろしい気持ちに陥らない、という保証もない。 だが、あの感覚から抜け出す事ができたからこそ確信を持って言える。

希死念慮。絶望感しかなく、絶え間ない苦しみにより、その苦しみから逃れる方法が唯一死しか見えなくなる状態。 あれは「病気の症状」だ。 症状がおさまれば、嵐が去ったかのように、憑き物でも落ちたかのように、あの「死への希求」という感情は無くなる。 希死念慮を持つ事、死にたいと思う事、これは貴方の心が弱かったり、悪かったりする事ではない。 「病の症状の一つ」なのだ。

また少しずつ、近況を振り返りながら綴っていけたらと思う。 もしも、どこかの誰かの、少しでも助けになる可能性があるのであれば。 貴方の苦しみは誰からも責められるものではない。 共に「嵐が去る」のを待とう。 苦痛は減りはしないだろう。でもせめて、その苦痛を共有しよう。 私達は希死念慮がある事苦痛を、もっと話して良いのだ。