燃える命のかたまりの、その火が静かに消えるまで

またしても閑話休題である。 私自身の生活には劇的な寛解も、劇的な悪化も無いからである。

唐突だが、うちには猫が2匹いる。 今年で16歳だ。歳で言えばいわゆる老体だが、ここからさらに20歳まで生きる個体もいるのだから、本当の動物の寿命の一般論などは存外あてにならないのかもしれない。

そうは言ってもやはり老体は老体だ。 昔のようにおもちゃで遊ぶ事も無くなったし、じっと寝ている時間も増えた。 猫は老体になると腎臓を患う率がとても高い。 2匹のうち片方はまだ歳の割には元気と言える値を保っているが、もう片方はだいぶ前に病院で検査をした時には既に「数値から見れば入院と定期的な通院が必要」な状態だった。

猫に限らず、言葉で意思疎通を図る事が出来ない動物はみな、どんなにそれが「本人のためであっても」、それが「本人に伝わる事」はない。 大抵の動物がそうであるように、我が家の猫も大変に病院が嫌いだ。 何をされるわけでなくても、ただ「いつもと違う場所へ連れていかれ、よくわからないが不安な事をされる」という事への恐怖が強いのだろう。 ただの健康診断であろうが、さほど痛くはないはずの検査であろうが、とにかく2匹ともに、診察台の上で恐怖にぶるぶると小刻みに震え、台に水滴がつくほど手に汗をかいて固まってしまう。 それが命のためにどんなに必要な事でも、彼女らにとっては「通院そのもの」がとてつもないストレスなのだ。

動物病院というのも、乱暴な言い方をすれば「当たり外れ」が大きい。 数値を見て、治療が必要なので一週間連れて来てくれという診断は、間違ってはいない。 だがその一週間は、通院そのものが耐え難いストレスの子には、症状以上のストレスになった。 その時には一度、通院を諦めた事がある。 本人の命のために必要でも、毛を逆立て、威嚇と恐怖の鳴き声をあげて抵抗し、最後は失禁をして病院へ行くのを嫌がる姿が、もう「本当に必要な治療」だとは思えなかった。 自分の家が一番好きなのだ。どこへも行かず落ち着く場所で、好きな事をして日々を最後まで過ごす。 それでいいのではないかと思った。

それから幸いにも、その片方の子はずっとそうして家で過ごして来た。命の危険があると前の病院で言われ、通院をやめてから7〜8年は過ごして来た。 ある時、急にご飯やお水を飲食しなくなり、ぐったりとした。家で好きに過ごさせよう、そう決めていても、ぐったりした姿をそのまま何もせずに見守る事は難しかった。 結局、前とは別の最寄の動物病院へ新しく連れて行った。

その病院の先生は優しかった。口調や態度だけではなくて、「飼い主たる人と、老いの為に弱っていく動物」の両方に優しかった。 猫が緊張と恐怖で震え固まっている様子を見て、その時の処置、及び今後についての「獣医として」の意見を申し出てくれた。 数値で見れば、すぐに入院をさせて点滴の生活をするような状態です。 でも、それはこの子に取って大きなストレスになるし、点滴で栄養が摂れても、自力でご飯を食べない子も居ます。それでは結局、長い目で見れば治療が進んだとは言い難いです。

その獣医さんは、通院した時の処置(点滴や注射)はしたものの、「ずっと通院を続けるのはストレスの話を聞くと難しいし、猫ちゃん自身の様子を見て、どうするのかは飼い主さんが判断して下さい」と言った。 老体の猫が完全に持っている疾患を治す事などできない。ましてや、通院自体がストレスになっている子もいる。 そういう場合は、「病院に連れてくるかどうかは、猫ちゃんの具合を見て、飼い主さんが判断をして下さい」と。

もしかすると、それは単に人のエゴなのかもしれない。適切な治療をしてあげられない事を専門家から言ってもらう事で、赦されたように感じているだけなのかもしれない。 それでも、連れていく相手は人の言葉の通じない、「彼女の時間」を生きている、人の都合も、自分の身体の都合も知らぬ、丸まんまの燃える命のかたまりなのだ。 言って聞かせられるのなら、病院での治療はどれだけ有効なのか、治療食がどんなに不味くても身体の為になるのか、飲み薬を飲む事で身体が楽になるのかを説こう。 それが絶対に不可能なのだ。その時どうするか。 全てが飼い主に委ねられる。 本当に必要な事は何か。その決定をしなければならない。

命のかたまりは温かくて、弱っているというのに目は黒々とガラス玉のように透き通って輝いていて、呼べば少しだけ覇気の落ちた声でいつものように応える。柔らかい身体の中にどんな苦しみがあるのか、見た目にはわからない。彼女の好きな寝床に横たわってじっとしている。

人でも動物でも、死は決して唐突なものではない。その最後が病や老いによるものなら尚更だ。 それは日々の時間の中、ゆっくりゆっくり進んで、老いへの歩みをまるで見ているかのように感じる時がある。 だが同時に、それが「死本来の歩みの速度」であるような気もするのだ。

急速な衰えでもなく、唐突な事故でもなく、ゆっくりと、ゆっくりと、燃える命の火が小さくなっていく。 実際の老いによる死への道はそんなに詩的なものではない。唐突に思える事だって沢山ある。 ここ数日吐く回数が増えた、床に寝そべる事が増えた、立ったり座っていられる体力がなくなっているのだ、食べたものではなくただ何度も胃液だけを吐く。 見ていて穏やかなものなどない。老いて死が近いかもしれない本人が一番苦しいであろうが、老いのせい、死が近いせいと割り切って、側で何も考えずに見ていられるわけでもないのだ。現に、猫でもなく私が寝込んでしまったり、あれこれを考えて心が悲しみで何も手につかなくなったり、そんな事をしたってどうにかなるわけでもない事を繰り返している。この文章だって、書いているのは夜中の4時過ぎだ。

それでも、あの大切で愛してやまない命のかたまりが、あまりにも燃えているような爛々とした瞳で見つめてくるので、 苦しみのない大往生などない、最後は苦痛もあると知った上で、そのともし火の最後を見届けようと思う。苦しむ姿から目を背ける事なく、最後までできる事をしようと思う。できる事が何もなくても。 特別な事ではなく、当たり前のように過ぎていく老いと死への一日一日を、そうやって過ごしていきたい。