24.0cmの足裏から

これはまた久しぶりになった。 前回の記事から2年近く経っている。 大きな一歩もなければ大きく失うものもなく、何よりありがたい事に生きている。

我が家の黒いねこは2017年10月19日、前回の記事の10日後、推定16歳で亡くなった。自宅で最期を看取った。 ねこは希望に満ちた目はしていなかったが、絶望の目もしていなかった。最期までただ生き続けていた。蝋燭の火がもう燃えることができなくなるまで燃えて、蝋燭の全てを燃やしてから亡くなった。 決して楽な死に際には見えなかったが、死ぬことは生きることのそのままの延長にあるように思えた。 動物は自ら死を選ばない。だから生きられなくなった結果としての死であった。それくらい常に生命活動を続けようとしていた。 歯が痛くて水が飲めない時も、水場の前までよろめきながら移動して、水の目の前で飲めないと言って抗議するように鳴いた。 死を知らないように鳴いた。生きる事は何にも阻まれることのない当然のことで、それが続けられないことへの不満のように鳴いた。 最期まで燃える命のかたまりだった。 沢山のものを貰った。貰うばかりだった。 家へ引き取ってきて16年の間に、少しは彼女に返せたものがあったろうか。

もう片方の縞模様のねこは、推定18歳になった。さすがに老猫なので一日を寝て過ごす時間が多くなったが、まだ自らの口でご飯を食べ、水を飲み、排泄をする。 知覚は少し鈍ったようだが、人を認識し、甘える様は子供の頃と変わらない。 きっと彼女も黒いねこのように過ごすだろう。 飼い猫として側に置かせてもらっている以上は、人が与えうる最大限を尽くして、最期の時まで絶対的な安心で包んでいたい。 死と相対するのは彼女自身であり、どれだけ願っても私はその苦しみを代わりに受け持つ事は出来ないからだ。ならば、変わらずに最期の時も側に居たいと思う。そういうことくらいしか出来ない。 何とも無力なものだ。

大きな一歩はないと書いたが、正確に言えば、文字にすればほんの少しだが、私にとってはまるで停滞の中にあったこの数年の中ではかなり大きな変化があった。

うつを患ってからは精神科の病院へ通院をしている。今の病院は2つ目で、そしてもう長い付き合いになる。 3週間に一度、自動車でおよそ30分程度の距離にある、小さな病院へ行く。 幸い先生とは長年かけて信頼を築く事ができた。 心の病、その延長としての生活の相談、そういった話が信頼できる医師に話せるのは大事なことだ。 医師である必要は必ずしもないかもしれないが、何にせよ「1人で抱えこまないでいられる」という事が重要だ。 私のかかりつけの医師は、決して優しく何でも聞いてくれるような人ではない。私が頭の中でばかり結論を出す傾向にあることまで見抜いた上で、常に在り方に疑問を投げかけてくれる。 出来ていると思い込んで地に足がついていない事はないか。逆に、出来ているとすんなり肯定すれば良いことを「こんなたわいもないこと」と思っていないか。 一度出来ていた事が出来ない状態になった時、再び出来た時に「出来た」という達成感・肯定感を得るのは難しい。何故ならそれは「本来出来て当たり前のこと」であり、むしろ「本当はこれが出来ていなければならないのに」とマイナスにすら捉えてしまう。 それは、現在の自分が「前に出来ていた自分ではなくなっている」ことを、本質的に自ら受け入れられていない為だ。 こんな事もできない自分を認めたくないから、出来たことに対して純粋に肯定できないのだ。 (少なくとも私はその傾向がとても強い。)

医師との話の中で、私は繰り返し「前の自分とは違う今の自分」をありのまま見つめ、そして「是も非もなくただ受け入れる」事をずっと努めている。 言葉にすれば容易に見えるが、私には数年以上かかって、ようやく実感が見えたか見えないか、という程度には困難なことだ。

前置きが長くなったが、つまり私にとっての日常はほとんどそんなペースでできている。 3週間に一度、外へ出かけて通院し、帰ってくる。 外出はほぼそれのみだ。

それは今も変わらないのだが、一つだけ変わった事がある。 本当は書くのがだいぶ恥ずかしい。 だが、多くの人や過去の自分には当たり前かもしれないが、今の私には長らく出来ていなかったことだ。 通院の時、同居している老齢の父に車で送迎してもらっていたのを、バスでの移動に変えることができたのだ。

今年の4月、父が前立腺の手術で入院する事になった。それを受けて、私は通院の手段をバスにしようと試みた。 父が入院して物理的に居ないことに加え、今後も何かあった時の為に通院は一人でバスで行けるようになる必要があった。 父の手術は無事に終わったが、それはそれとして私の通院の日が近づくにつれて別の緊張が増した。 寝付けない。日中に起きられるだろうか。間に合わなかったらどうしようか。 不安と焦りに満ちてはいたが、何とか初めてのバス通院を終える事ができた。 その時の、得も言われぬような達成感。 誰の手を借りる事もなく、私1人で私の都合である病院へ行き、そして帰って来られたという事が、この上ない達成感として全身に満ち満ちた。

こんな感覚はもう何年も無かった。嬉しさを噛み締めた。 ようやく私は、頭の中ではなく、体感として「今の自分に出来る事」を実施し、喜べたのだ。

それ以来、バスでの通院を続けることを試みている。期待値はなるべく抑え、ハードルは低くしておく。 バスでの通院が途切れてしまっても落ち込まないこと。続けることを優先に考えないこと。 バスで通院するという手段を目的にしないこと。 その上で、通院できた時に感じる気持ちを大事にする。 4月、5月、6月、7月、8月。 この記事の下書きを途中まで書いていたのは、実は7月の通院から帰ってくる道中だった。 長らく続きを書くことが出来ないでいたものを再び動かす程度には、私の中に小さな力が微かに溜まってきたのではないだろうか。そうであったならとても嬉しい。 ほとんど月に一度だが、車で送迎してもらっていた頃とはまるで違う季節の感じ方をする。 小さな花が美しい。初夏は夏の鳥が鳴いている。今は蝉の声が、降り注ぐ生き物の讃歌のようだ。 じっとりと蒸す空気を皮膚の全てで感じる。 自ら外に出ているという喜びで、心が浮き立つように軽やかになる。 アベリアには蜂もスカシバもいる。シオカラトンボが花の終わったツツジにとまっている。そういった光景に目を向ける事ができる。 拭っても拭っても汗が滲み滴り落ちる。全身で喜びに涙しているようだ。

最後に入院していた時が精神状態として一番悪く、本当に帰宅したらその足で吊ってしまいそうな程、頭は逼迫していた。 入院中にコンビニへ要り用なものを買いに出かけた時、真っ青に晴れる晴天の日差しは、まるで黒い雨のように背中を叩きつけた。 コンビニまで一人で歩いている時、私が生きていられる場所はこの世にこの2つの足の裏にだけしかないと感じていた。 足跡は付かずすぐに消えていく。立っているその足の裏だけが私の生きる世界だった。

退院から一年、二年が経ち、私は何とか生きることができた。今思えばそれだけで快挙なのだが、当時はそんな自分を褒める事も認める事も余裕がなく、ただ辛く思い詰めずに済んでいるという事にだけ感謝していた。いや、その時はそれが私にできる最大の範囲だったのだろう。 足の裏だけの世界から、ようやく自室、そして家の中まで、私が生きていられる場所が広がった。

2019年の4月になって、ようやくその小さい変化があったことで、今、私の世界は家の中から家の周囲、バスで移動できる病院までの間まで、広がりつつある。

緊張していたバスの中から、外を見る余裕が出てくるようになった。 病院へ向かう為に家を出て鍵をかける時にうきうきするようになった。 帰りの道で景色を見る回数が増えた。 今年も暑すぎる夏だが、涙が出るように全てが美しい。曇天の雲の厚さ。薄い青空の遠さ。湯の中を泳いでいるような熱い空気。汗が首筋を伝って服を濡らす感覚。刈られても尚逞しく伸びていく草花。雨音。傘の端から垂れてくる大つぶの雫。 外気温を皮膚で感じているからこんなに汗が出るのだ。今自分は外に出られていると実感する。

勿論、先に書いたように、何かの拍子でまた困難はやってくるかもしれない。続けられると驕らず、しかし卑下もせず、日々できる事を誰とも比べずにただ積み重ねていこう。 困難は来た時に考えよう。決して1人で頭に抱えることなく。

帰宅の時、歩いて来た道を振り返る。 晴天の時も、曇天の時も、夕闇に何も見えない時でも、 以前は幻のようにすぐにかき消えていた足跡が、歩いてきた帰り道にたくさん形として残っていて、だんだんと私が歩くことができている場所の形を成しているのが見える。 滴る汗は足裏から大地に滲み、見えなくとも小さな根を張って地下に留まり続ける。 そうして足裏にしかなかった世界が徐々に形を変えていく。 身体は喜びに涙して汗をかき、私は冷えた麦茶を命の源のように、喉を鳴らしていっぱいに飲み干す。