今更のモラトリアム
2016年の12月は、「再度入院をせずに、ぼろぼろな生活ながらも、えっちらおっちらと日々を過ごして迎える事のできた初めての1年目」だった。
もちろん、具合が悪くなった時に然るべき場所へ入院するのは正しい治療法である。
ただ、1回、2回、3回…4回…と回を追うごとに連れ、「入院生活がまたやってくる事(正確には、良くなって戻ってきたって結局またここへ戻ってきてしまう、治療をしたってちっとも快方になんて向かっていないと痛感する事)」は、逃れられない絶望の象徴だった。だからまた入院する事は、とても怖かった。
このブログを書き始めようと思った時の大きなきっかけは、「希死念慮は病のせいで起こる“症状”である」という事を、私自身が強く実感をしたので、それをどうしても伝えたかった事が根底にある。
その考え(希死念慮、自死衝動、自殺企図)は、病の症状で起きているだけであり、「自分や、周りの人への罪悪感などを感じたりせずに、“最近頭痛がひどくてね”、と言うレベルで話しても良い事である」)は今も変わっていない。
私は幸い、2015年の12月頃に退院をしてから、1年間、とんぼ返りの再入院をする事なく家での生活を過ごす事ができた。
ただ、それは「うつ状態から解放され、順調な快復が続いた」という事ではない。
長年続いていた抑うつ状態(気分変調症)の中で「希死念慮を感じる機会がほぼ無くなった1年」であった。
希死念慮・自死衝動という、1分1秒が生きている事の苦しみでぼろぼろに首を絞められている状態ではなくなり、「元の長年来の、うつ状態に戻った」という感覚が近い。
つまり、私のうつ状態(広義)は寛解に向かったとは言い難く、現在でも、日々はぼんやりと過ぎていくだけだったり、ちょっとした事で寝込んだり、就寝や食事、外出のリズムが戻ったりした事もない。環境が許してくれる、ひとときのモラトリアムに戻っただけだ。
また日数は空いてしまうかもしれないが、今度は私の、長く長く続いている、もはや日常となってしまった「うつを抱えた状態での日々の記録」を少しずつ綴っていければな、と思う。
昨日や今日、自死衝動に苛まれても実行には至らなかった人、
「至れなかった」でも構わない。
よく乗り越えたねと褒め讃えたい。
決して絶望が止んだわけではないだろう、また、私にはその絶望や苦しみを取り除くような力も無い。
ただただ、「今日死なないでいられた」事の努力(努力の結果だと感じていなくても構わない)を、私は100%手放しで褒めたい。
他でもないあなた自身がとても頑張った結果なのだ。受け身でもなんでもない。自ら1日分の生をちゃんと選択して、絶望の中からもぎ取ったのだ。