一年が経って

多忙だったり、大変具合が悪かったりしたわけでは無いが、またもかなりの期間のブランクが空いてしまった。

コメントやブックマークなどを頂いていた事も、つい最近知った。誠にありがたく、また、どうか何らかの助けになる事を心から願います。

 

自分でも読み返していて、一年前にこんなに希死念慮に苛まれて入院し、また絶望感を持ったまま退院し、そして現在までにどうやって希死念慮から完全に解放されたのか、ほとんど記憶にない。

一日一日をひたすらしのいで過ごしたのだろうという予想と、有り難くもあの恐ろしい感覚から解放された事によって、決して順調ではないが、少なくとも今の私は比較的「安定した」状態にいる。

具合や体調は安定してはいないが、その事に「一喜一憂したり、逐一焦る事が減ってきた」のは、体感だが、少しずつ増えてきたと思う。

そして多分、とても時間のかかるけれど、それが唯一の前へと進む方法なのだろうと感じる。

 

「うつの治療」、「病気の完治」がどういう状態を指すのか。

身体の疾患でも、未来の事まで含めて「絶対に再発はしない」「完全完治した」と断定できる病は、実はそんなに多くはないと思う。

ましてや精神の疾患は、判断となるような目に見える数値や病巣、具体的なものが何もない。

「うつは治る病気です」とよく耳にするが、半分は表現として正しく、また半分は正しくはないと思っている。

 

極端な話だが、「完治」なんてしなくても良いのだ。というより、これから先の未来の事も含めて、「完全に治った、再発はしない」と言い切れる事は、ネガティブな事ではなく、現実的に(精神疾患ではなくともあるのだから)あり得ないのだ。

だがそれは「絶望が途切れない」ということでは決してない。

前へと進む為の必要な時間、辛く苦しく、ひたすらに耐えるしかない時間、それは皆個々によって異なる。

一歩だけ前へ進む為に、10年を要する人もいるのだ。そしてそれは、全くおかしいことでも、時間の無駄でも無い。

私にとっての必要な10年であり、あなたにとっての必要な時間なのだ。

 

私が今、「希死念慮」というあの感覚に苛まれ、一分一秒をもがき苦しみ過ごしている人へほんの少しでも伝えられる事があるとすれば、

希死念慮を他人に伝える事は、悪い事ではなく、むしろ解放される為には必要な事なのだよ。何も悪い事ではないのだ。」という言葉です。

信頼のおける専門家、かかりつけの医師に相談をしてみる事は、とても恐ろしいけれど(否定され、受け入れられなかったらどうしようという罪悪感と不安を強く持っているからこそ、どうしても恐ろしくて打ち明けられないのだ)、相手が専門家であるなら、少なくとも希死念慮自死衝動については、「親身で身近な“素人”」よりは、遥かに適切な言葉をくれる可能性がある。

親身で身近な「素人」──それが家族や友人であればあるほど、「あの体験をした事のない」人ならば、自死衝動の告白に対して、本当に適切な判断や、リアクションや、言葉をかける事は難しい。

彼らはあなたを大事に思うからこそ、「自死」という言葉の表面的な恐ろしさをまず自分の感情として受け止めてしまい、「あなた」に対しての言葉が出せない。

「ショックだ」「どうかそんな(馬鹿な)事はやめて」「あなたが死んだら私が悲しむ」

これらは私が自死衝動を家族に伝えた時に実際に貰った言葉だが、どれ一つとしてその時私の救いになるものではなかった。

彼らには死を希求する体験がないから、当然といえば当然である。

思っている事は偽りなく「私(あなた)」の事であるが、死を希求する状態の苦痛を理解し、それに寄り添う事はできないのだ。

私たちが本当に救われる言葉というのは難しい。

ある人は「あなたを大事に思っていて、居なくなっては困るのだ」という言葉に救われる場合もある。

ある人は全く逆に、「私が居なくなって困る主張をされてもそれで一体私の何が楽になると?」と傷口を毟られたかのように追い討ちを受ける。

 

一つだけ、うろ覚えながらも覚えているのは、入院期間中、担当医師に、勇気を振り絞って希死念慮がある旨を伝えた時の医師の行動だった。

希死念慮がある。という事をやっとの思いで医師に伝えた時、医師は「いつもの診察と同じように」、相槌を打ち、「死にたいという気持ちを持っている事は“何でもない事である”」かのように、淡々と話を聞いてくれ、慎重になり過ぎる事もなく、不穏時の頓服を処方したのみで診察を終えた。

これには人によるのかもしれないが、少なくとも私の場合は、

希死念慮を持っている事を、まったく危機的な、緊急を要する異常な状態ではない」ように、「とても苦痛だが、今起きている“症状である”」と扱ってくれた事に、深く安堵したのだ。

死にたい、

死にたいと言う事にひどく罪悪感がある、

死にたい感情を持つ自身が嫌になる、

そういった事全てが、「後ろめたくなく、症状として話して良いこと」なのだ。

ずっと心に刻み続けるスティグマなどではない。

「今日は偏頭痛が一段とひどくて…」

そんな風に話して良い事なのだ。

 

希死念慮は「病の一つの症状」である事は間違いないと確信しているが、たった一人で、そこから脱出する事はとても難しい。

だから専門家による治療は必要である。

そして、治療を受ければ、即時という訳にはいかないが、「嵐が去ったかの如く、症状は去る。」

 

どうかあなたの背を叩き続ける黒い雨が、正しき人の助けを得て、一日でも早く止みますように。

 

雨が止んだ後に、薔薇色の生活のような都合の良いものがあるわけはないが、

空が綺麗だな。

とか、

綺麗な草木が生えている。

ご飯が少し美味しかった。

布団が暖かい。

秋が過ぎて、冬になってきたな。

 

そんなささやかな、でも、涙が出そうな程の、小さな小さな幸福が感じられる生活には、少しずつ近づけるのだから。