対岸の火事

希死念慮が病の一つの症状であるならば、絶望感はそれとは異なるものだ。

漠然とやってきたり、ぼんやりと思うものではない。

絶望というのは、希望(今より僅かでも楽になるかもしれない可能性)がほんの一欠片の見つからない状態を言うのだ。 文字通り「望みが絶たれている」。 前にも。後ろにも。その場でやり過ごす事すら不可能だ。 だから恐ろしい程の希死念慮に襲われる。漠然とした死にたさではない。


私は火事にあっていて、誰かの助けがなければそのまま火炎の中で焼死してしまう。

この状態が家族には全く伝わらない。 私が火事にあっている事が伝わらない。 このままでは焼け死ぬ事が伝わらない。 火事にあっているという事が分かったとしても、消火をしたり、助けに来たりする手段がわからないので、「助けられない」と言う。 火の届かない遠い対岸で、 いかに「自分達が」私の無事を思っているか、 いかに私の事で「自分達は」胸を痛めているか、 いかに助けたいと思い、それができない事を「自分達が」苦痛に思っているかを、 とうとうと述べている。

どんなに滑稽な図か、想像できないのだろうか? 私は今まさに火の中にいて、このままでは確実に焼け死ぬのだ。 彼らは遠くでずっと「自分達の」非力さを嘆いたり、謝罪したり、何をしていいかわからなく事を苦しんでいると訴えたりしている。 がむしゃらに火事の家から助け出すという選択肢は一切無いのだ。 (彼ら曰く、「その方法がわからない」。) 焼け落ちる家の中で、私は茫然と対岸の彼らを見ている。 これが絶望でなくてなんであろうか。

私は海で溺れていて、誰かの助けがなければこのまま溺死してしまう。

火事と同じだ。 彼らは桟橋の上で、 どれだけ自分達が私を大切に思い、 どれだけ自分達が私の身を案じているかを訴え、 それでも、自分達は泳げないので海には入れないと主張する。困惑の中での自分達の努力を主張する。 泳げないので海に入れない事を嘆いている。自分達の非力さを詫びたりしている。 目の前で人が溺れているのだ。 私は海の水で溺れ苦しみ続けながらその様子をじっと見ている。 私の目の前に居ながら、目の前で私が溺れていながら、助けられない、そのやり方がわからないと「嘆いているだけ」の彼らを見ている。 ああ、絶望だ。 彼らは永久に私を「助けてはくれない。」

いかに自分達が非力で、過去に何をどう誤ったのかを考え、それに苦しみ、嘆くだけの存在。

火事の家に飛び込んできてはくれない。 海に入って救助はしてくれない。 「どれだけ自分達が私を思っているか」と「自分達にはそれができない」事を私に訴え続けるだけだ。

どこの誰だって構わない。 確実に死に結びつくこの苦しみから助けてくれるなら誰でも構わない。 ただ、私の家族は、私の目の前に居ながら、ずっと「自分達がいかに無力で申し訳なく思っているか」を述べ続けている、 この異様な絶望的な光景をもう見たくはない。

非力さを嘆く事、過去にしてやれなかった事を謝罪する事、今自分達がどれだけ私を思い、大事であり、助けたいと思っているかを「ずっと演説している。」

救命器具の一つでも投げたことは「一度も無い」。

いっそ私に無関心である方が割り切れるというものだ。 彼らの「訴え」は、「訴えればその分だけ」どんどん空中に浮いた、ナンセンスな主張になる。 同時に私にとって、最大でもはや揺るぎようのない「絶望」をもたらす。

溺れている人間の前で、いかに自分が泳げないかを訴え続けるだけの存在が、 どれだけ滑稽で、どれだけ絶望的に感じられるか、 これでも想像はできないだろうか?