カミングアウトの恐怖

希死念慮がある事を告白するのは、とてつもなく勇気がいる。恐怖がある。

相手が例え専門家だとしてもだ。

精神療養の医療機関への入院時の項目に、「希死念慮はあるか」「自傷歴があるか」「自殺未遂はあるか」などのチェック項目がある。

果たして希死念慮を持つ人間が、そのチェック欄にためらいもなく正直にチェックを付けられるだろうか?

チェックを付けた時点で、入院を拒否されるのではないか。 そうしたら、もうどこへも行くあてがなくなってしまう。

主治医にも、長らく希死念慮がある事を伝えられずにいた。 希死念慮は「必ずしも自殺と結びつくわけではない」が、「絶対に結びつかないわけではない」事は、身をもって知っている。 自殺衝動のリスクのある患者など、診てもらえるのだろうか。 信頼をしている医師だからこそ、カミングアウトをして、この病院ではもう扱えない…と判断されたらどうしよう、というとてつもない恐怖があった。 希死念慮の辛さは当事者である自分がよくわかる。他に希死念慮を持った人がいたら、私は我がごとのようにその人を何とか安心させたいと思う。

でも、先生に見放されてしまったら… この病院ではない、見知らぬ新しい別の病院へ移動する事になったら… 自殺するリスクのある患者として絶えず監視されるような生活になったら… 予想のつかない不安と恐怖が増した。希死念慮がある事を伝えるのは、本当に勇気のいる事だった。

結局、つい先日になってようやく、主治医に希死念慮がある事を伝えた。 あまりに希死念慮が強く、日中も身を起こしている事ができないくらいで、もう退院したら家に帰ったその足で自死を決行してしまいそうだったからだ。

主治医は特に深く傾聴してくれたわけではなかったが、自殺のリスクが高く緊急性があり、この病院ではもう診ていられない、というような運びにはならなかった。 (不安時に加え、「不穏時の頓服が使用出来るようにしておく」というのみにとどまった。)

希死念慮、 この、「本当に当事者にしかわからないであろう、あの感覚」。

死にたいという気持ちは、文字通り100%ネガティヴ極まりない意味を持つ。 故に、感覚を理解しがたいと思う。 家族であっても、伝わりもしないのだ。

死にたい、は正確な表現ではない。 だが、死への希求という極めてネガティヴな印象がある為、 ほぼ間違いなく「受け止めてもらえない」。

私達は「死にたい」のではないのだ。 「絶え間なく続く苦痛、絶望から解放されたい。その手段として、もう自分には死しか可能性が見えない。」 これが、多分、本当に訴えたい事だ。

「生きて欲しい」(それは貴方の願望であり、私の苦痛を取り除く手段ではない) 「死ぬなんて言われたらショックだ」(それは貴方の受けた精神的ダメージであり、私の苦痛を取り除く手段ではない) 「今は辛くても生きていればきっと日が昇る」(今辛いから解放を望むのだ。私達にとって、明日はもはや絶望の延長でしかない)

今辛い。 今、解放されたい。 でもそんな手段はない。飲んで苦痛がすぐに去るような薬もない。地道に、1日1日を送っていくしか方法はないと、分かりきっている。 だが分かりきった上で、「もう疲弊しきり、生きていくのは限界で、今、苦痛から解放されたい。」 それが希死念慮だ。