自身の希死念慮について(1)

前のエントリーにも少し書いたが、ここ数日でこれまでにないほどの希死念慮に襲われ、起きる事もままならない程度の絶望感で打ちひしがれている。 打ちひしがれている…というと、悲劇のヒロインのように聞こえるかもしれないが、ふとした拍子に、本当の死の可能性を持って怒涛のように襲ってくる恐怖だ。 そんな美しいセンチメンタリズムではない。

私が今感じている希死念慮、絶望感について、これ以上無いくらいに「ぴったり」という説明をされているブログを拝見した。

希死念慮と向き合う | 社会不安障害と向き合う

以下、部分引用

“私は言葉を選びながら、ゆっくり話した。「悲観や絶望に陥らずに、毎日、できることをやり、少しずつでも進むことが大切であることも、解決法はそれだけであることも知っている。それなのに、自分のどこか根幹の部分が、どうにもならないほど疲弊していて、進むことができない。疲れきって動けない。これではいけないとは思う。いつまでこんなふうに苦しみ続けるのだろうという思いが圧倒的になってきて、なにもかもを終わりにして、世の中から消えることが、理不尽に永久に続くかのような苦しみを終えるには唯一の方法であるようにも思えてくる」”

本当にこの通りなのだ。一言一句違わないと言っても過言ではないくらい、この通りなのだ。

私は先の不安を感じると、その度にひどく悲観的になり、絶望感に打ちのめされた。その時に咄嗟に出る言葉は「もう嫌だ」「もう乗り越えられない」「もう次は無理」、そういった言葉だった。 全て「もう○○」という出だしである。 一つ一つの不安材料は一つ一つ乗り越えるしかないと分かっているつもりであっても、 絶え間のない苦痛の中、何らかの不安材料が現れると、「もう嫌だ」と全てを否定し、絶望に陥る。 それは実際そうなのだ。 不安材料が現れなくとも、表面化していないだけで「常に苦痛は絶えず続き、その中に一人で身を置いている」という状態であるからだ。 新たな不安材料に立ち向かうだけの力などもうとっくに無いのだ。日々の中(常に絶望に襲われ続けている生活)で、そんな当たり前の事(一つの不安材料には、一つだけ乗り越える)もできない程度には磨耗しきったのだ。

疲れ切った。心が疲弊しきっている。 まるで先が見えないからだ。 形ある姿でこの病は終わりを迎えない。(うつ病は「治る」とは言われているが、今の私には想像がつかない。) いつまでもこの疲れから解放される事は無く感じる。永遠に、常に恐怖と不安に苛まれて暮らすように思える。 苦痛は無くとも前進もしない1日が終わる。(申し訳ないが)まだ私は老い先短いわけではない。あと何年、こんな風にして1日1日を過ごしていくのか。家族はおそらく先に亡くなっていく。順番で言えば私は最後に残される身だ。 残った後私はどうやって生きるのか? そもそも生きている最低限の楽しみすら今見出せないのに?もはやこの先の人生は、終わりが来るまで全て絶望的な期間に思える。 だから、「終わりの事」を考えるようになる。いつ「終わり(苦痛からの解放)」が来るだろうか?

私には身体の病気がある。だが癌のように生死が常に近い病ではない。だが、その病で今死ねたらどんなに楽だろうと思う。 逆に、その病と一生寄り添って生きていこう、そんな気力などない。 治療は絶する身体的苦痛を伴う。だからこそ、生死が関わらないからこその苦痛と不安に満ちている。

心の病に苛まれる生活の終わりは見えず、 身体の病と付き合う現実は絶えず目の前にある。 心の病の症状として、楽しみを楽しむ事はもうずっと出来なくなっている。同時に、不安感や焦燥感は“絶え間無く”続いている。 どこにも希望がない。 これを絶望というのだ。

絶望から解放されたいのだ。疲労困憊だ。もう終わりにしたい、苦痛が頂点になると漠然とそう思う。 もう終わりにしたい…もう終わりにしたい…。もう元の生活に戻れなくて構わない。(元の生活がどんな風に達成感に満ち充実していたのか、思い出せない。) 戻れる、という希望を見出せない。ただひたすらに、今の苦痛からの解放を願うようになる。もう終わりにしたい…。すなわちそれは病の克服ではなく、死への希求だ。 希望の欠片も見出せず、絶え間のない苦痛・絶望感の中で、それから解放されたいと思い続ければ、自ずと辿り着くのは「死」だ。 死が全ての苦痛からの唯一の解放に思えてくる。 (他に方法があるという実感を得られないからだ。)

私にとっての希死念慮は、漠然とした「死にたい」ではないような気がする。 自殺企図にかなり近い。 ずっと「どうすれば確実に(できればあまり他人に迷惑がかからずに)死ねるか」という事で頭の中がいっぱいになっていた。 (客観的に見れば、自死の時点で他人に迷惑のかからない方法などないのだが、希死念慮を持った事のある人であれば、その矛盾を持ちながらも自死の方法に思考を巡らせるあの感覚がわかると思う。) オーバードーズ(薬物の大量摂取)はかなり不確実なので選択肢に上がらない。 自傷もそうだ。よほどの覚悟を持って確実に致死に値する方法でなければ、「自傷歴がある患者」として、更に苦痛な人生を永らえるだけ、と想像するのは容易い。 飛び降りは確実性は高いが、万が一生きてしまった時の生き永らえ方は悲惨極まりないだろう。 縊死はほぼ100%だという。私の頭の中はずっと飛び降り、縊死、飛び降り、縊死…その事で埋め尽くされた。 誰にも助けを乞う事はできなかった。

これだけ自死の事を考えていても、人間には生命を維持しようという本能がおそらくある。 行動に移そうとする時、それはもう恐ろしく、恐怖で号泣する。 つまりは、死にたいわけではないのだ。 多分、生きていたいのだ。 だが死ぬしか楽になる方法が見つからない。 その矛盾と、誰の助けも貰えないという孤独感と、生き続ける事(苦痛が現実として続く事)の、全てがごちゃごちゃと相反し、嗚咽を漏らしながら実行できずにまた1日を終える。

生き地獄だ。