人々を乖離させる幻想

世間一般という、ありそうで本当は実在しない水準から見れば、私の今の暮らしの状態は芳しくはないだろう。 「普通」「みんな」「多数」「一般的」、これらの言葉はなにもまやかしでは無いけれど、人は例外なく全員が異なる個体である事を差っ引いて、拾える数値だけで計算した、単なる「平均値(アベレージ)」だ。 「平均値」は何かの目的の為に割り出された指標であって、実体を伴って存在するわけでは無い。 目的を持って割り出された数字であるから、指標として使うのは間違いではない。ただ、あまりに言葉があたかも実在するかのように働いて、大体の人に悪い方に作用する。 「普通」ではない、「みんな」とは違う、「一般的」ではない、という考えを、毎日どこかで耳にする幻想のアベレージによって私達は植えつけられていく。

生きていて辛くない人というのは存在せず、生きているからには人は何かが辛い。 辛さの受け止め方自体が異なると、「辛い」という言葉ですらも疎通が出来なかったりする。

まだ「普通」という幻の中にいて、そもそも生きていると辛いことが起きるのだとあまり気づいていない人もいる。 そこに年齢は実は関係がない。若くてもそれは幻だと理解している人もいれば、年老いても尚幻に囚われ続ける人もいる。 幻想の中にいる場合、辛さとは突然我が身にだけ不幸が降って湧いたかのように感じる。なぜ自分がこんな目に合うのかという理不尽さで心が轟々と乱れる。 もう12、3年も前の事だが、初めに私が鬱状態に陥った時はまさしくこうだった。その幻想から完全に脱却できたかのかどうか、私はやや口籠る。そのくらいは、人によって向き合うのに時間を要する。

「普通」とか「みんな」という言葉は、概念であって実在するものではないのだと何らかの形で体験し、できれば昇華し、あるいはまだ体内に引きずったまま、とにかくそれを知った後の生き方は、ほんの僅かに少しだけ、辛さと共存ができるような気がする。 苦痛や苦しみを経てもなお生きていく為には、そもそもその辛さを体験しなければ分からない。 そして、共存できるからと言って、辛いことが辛くないわけではない。辛いものは辛い。 ただ単に、一人の個として、誰と比べる事もなく、自分に起きている事実として捉え易くなる。アベレージの幻想から離れて、他者がどうかを気にする事なく、今の自分の状態として、一対一で向き合えるように思う。 辛さを本当に分離できてしまう生き方をする人も世の中にはいるが、私はおそらく辛さとは寄り添って、我が身の一部としてずっと共にしていくだろう。

ただし例外はある。希死念慮だ。 これは完全に個人の受け止め方や向い方の問題ではない。 100%、苦痛のあまり脳がもたらす「状態と症状」だ。 風邪の時に熱が出る。関節が痛む。それを意志の力では止める事はできない。風邪の時に仕組みがあって発生している「症状」だからだ。 生命は残酷なまでに現実に属している。 意志の力で脳はシャットダウンできないし、どんなに強く願っても心臓を止める事はできない。死を望むだけでは何も起きない。失神すら不可能だ。生きている身体は意志とは無関係に活動をし続ける。 つまりは、風邪による頭痛と同じ処置が必要なのだ。 どこでも構わないから病院へ駆け込んでいい。今にも死にそうだ、何をどうしたらいいかも分からないと、言葉がめちゃくちゃでも何でも、ありのままを伝えればいい。カウンセラーなどに話を聞いてもらえなくて構わない。思った事を吐露していい。今抱えている大き過ぎて収拾がつかなくなった、絶えず背負っている絶望の事はその時考えなくていい。生きている事が辛い理由が沢山あることは、「死を望む風邪」の症状が去ってからでいいのだ。 専門の病院では、そういった状態の人へ緊急にまず何をしたらいいかをちゃんと知っている。何もかもスムーズに運ぶわけではないが、少なくとも彼らにはそうした状態にある人たちの精神状態と、まずすべき処置がわかっている。少なくとも、「命を大事にして下さい、死ぬなんて言わないで」だの、傷口に塩を塗り込むような愚かな真似はしてこない。 この状態で一番すべきなのは「最も苦痛な風邪の症状への処置」なのだ。 他にたくさん背負っている全ての苦痛の事は、その時は忘れていい。処置は恐ろしいものではない、電気ショックを与えるような時代は去ったのだ。 抱えている絶望を全て一度に考えなくていい。どうもしなくていい。 一番ひどい「死を望む風邪」の症状が落ち着いてから、さらに時間をかけて、大きな一つに見える辛さのかたまりをゆっくり分解し、ごま粒のように一個ずつじわじわと向かい合えばいいのだ。 激しく咳き込んで止まらない人に対して必要なのはまず咳止めだ。頭痛で頭が割れそうな人に必要なのは鎮痛薬だ。 咳が止まってから、他の辛い症状に、ゆっくり時間をかけて向かい合う。その時は専門家と他人の手を頼る必要がある。 希死念慮は「病気によってもたらされる症状」なのだから、症状を落ち着かせる為、落ち着いた後にどうするのかについては、専門の医師と薬は必要なのだ。

日本語のあやというわけでもなさそうだが、希死念慮を持つ人がぼんやりと心に浮かべる言葉が「死にたい」なので、私はこの表現が、希死念慮が理解できない人との隔絶をもたらすよくない表現だと常々感じる。 「死にたい」と思うことが悪いのではない。 その言葉のまんまの意味として捉えては、実際の状態と非常に乖離が激しいのだ。真逆と言っていい程だ。 「死にたい」は正確な表現ではない。世の中で「死にたくて」亡くなっている人は皆無だ。

「死にたい」のではない。 「生きている一分一秒が耐えられない苦痛に満ちていて、その苦痛から逃れる唯一の方法が、己の死しか思い浮かばない」状態である、というのが本質だと思う。 もはや生きている事が苦痛過ぎて、死をもってしかその苦痛から逃れる方法が思い浮かばない状態なのだ。 死を望んでいるのではない。あまりに辛くてもう一日も生きていたくないから、生きることを終わらせる手段として死を選ぶしかないと思うのだ。死を積極的に望んでいるのではない。 それしか逃れる方法が思い浮かばない精神状態なのだ。 (思考狭窄が起きていて、一人では抜け出せない。)

「死にたい」という、あたかも死へ憧れてそれ自体を望むことが本心であるような捉え方をされる事は多いと感じる。 公共の場で自死を果たしたり、未遂に終わったりする時、その人に心を寄り添わせてくれる人は極端に少ない。 「死にたいなら迷惑をかけずに一人で死ねばいいのに」という言葉を、幾度となく耳にする機会があった。死にたいという精神状態に陥らなければその感覚は理解されないので、言葉の通り「死にたいから望み通り死んだんだな」と受け止められるのだ。実際、その精神状態に陥った人がそのまま遂げてしまえば、それは死にたい故の行動ではないのだ、まったく意味が違う事だったのだと、生きている人に対して伝える事ができない。 なので理解の溝は埋まる事がない。 そうした体験がない人とは、たった四文字「死にたい」というシンプルな日本語の意味に、こんなにも、こんなにも乖離がある。珍しい事でもなんでもなく、当たり前のようにその乖離は溢れていて、いつまでも埋まらない。

「死にたい」のではない。「生きていたくない」のだ。 死を望むことは、もう生きていたくない「手段」として最終的に具体的な方法として思い浮かぶ「症状」だ。 あたかも自ら死を希求するかのような表現はどうして無くならないのだろうか。例えば「自殺願望」。精神的な状態の一つとして、希死念慮とは別の状態なのかもしれないが、とんだ誤解を生む言葉だ。 一言一句が、まるで死を自分の意志で望んでいるかのようだ。安易に死に対して憧れている様すら印象に受ける。 だから、その言葉をやっとの決意で口にした人へかけられる言葉も安易になる。命を粗末にするなんて言語道断だのなんだの。命を大切にして思い直せだのなんだの。あなたが死ぬと私が辛いだのなんだの。 全くのお門違いも甚だしい。認識の乖離とはこんなにも、生きている一瞬、この今の瞬間が苦痛でたまらないでいる人を、まるで谷底へ突き落として、苦痛の生傷をさらに無知なのこぎりでずたずたに何度も引き裂くような、しかもそれを善意だと思っている言葉を引き出すのだ。

5年ほど前、最も私の希死念慮が酷かった時に両親にかけられた、あなたが死んでしまうと私達が辛い、という言葉を聞いた時、鼻で笑う程に嫌悪し呆れた。目の前で話しているのに、こんなにも遠い。あなた達の辛さの為に、本当は望んでない死しか手段がもうない私に生きてく欲しいだと?私の選びたくもない死が、私ではないあなた達の苦痛になるから止めてくれだと?どんなに親身に思われていた言葉だとしたって、認識の乖離とは、時に本当に、船から駄目押しで夜の深海に突き落とされるような、より絶望を深めるような残酷な言葉をもたらすのだ。

重い重い風邪にかかっている時に、「高熱願望」なんて言葉は出てくるだろうか? 高熱にうなされたくて自ら望む人はいるのだろうか。熱を出したくて出せるものだろうか。

体験のない事を全て想像し理解しろ、と他人に求めるのは不可能だ。世の中の人は大抵が、それぞれ異なる形の辛さを持って生きている。その形を自分もまた想像する事も理解もできない以上、それは個人的に向き合っていくものなのだと思う。

乖離は取り返しのつかない溝ではない。 とりあえず希死念慮がおさまってから考えればよいような事は沢山あるのだ。 抱えた問題を一度に背負う必要はない。 まずは一分一秒を苦しめる希死念慮を治める。おさまった所で、真逆に位置する生への欲求がすぐに出てくるわけではない。とりあえず、生きていても常に苦痛があって、そこから逃れるための死、という手段が少しずつ遠ざかっていけばいい。その後に何もかもゆっくり考えればいい。

私はようやくこの3年程で希死念慮自体は治まったが、依然として積極的に生きていこうという意志はまだないままだ。 咄嗟に「死にたくない」という本能的な生命力がない。それでも希死念慮の苦痛が無いだけで、あれやこれやと頭でっかちな事を考え、個として辛いことを同居する家族が各々関係なく持ちながら、折り合いをつけたり、そうでもなかったりして過ごせている。

いきなり何もかも好転したりはしない。苦痛、苦悩、自暴自棄、逃避、諦観、そんなものの連続だ。 それで構わないと言い聞かせてて過ごしている。欺瞞ではない。頭でっかちなので、実態として受け入れたつもりがそうでなかったような事があってたびたび落ち込んでは、これが今の私の手のひらで掬える水の量なのだと心身を持って実感する。 間違いも失敗も何度もする。その度に具合が悪くなり寝込む。そんな自分が嫌いで、同時にその寝込む自分、手のひらにたった一杯の水しか掬えない自分をひたすらに見つめ、泣こうが喚こうが、今ここにあるこの形が、死なずに生きてこられた我が身の姿なのだと、しげしげと内側から手を這わせて感じる。 幻想を見ている暇が無くなった事で見える事もある。少しだけいろいろなものをアベレージで見なくなっていく。 ごく普通の人、一般的な人、世の中の大多数の人など、というのは全て概念で、みな大小さまざまの傷があって、痛みと苦悩の中で生きている。他人の生きている様子が簡単に分かるわけがないので、私も私として、その苦痛や痛みを他人に知られる事を欲することなく、できる範囲の事をして生きている。 ありがたくも死なずに済んでいる、という表現の方が近いかもしれない。だが、どのみち死のうと思わず、死なずにいられているので、少しくらいはそれを「生きている」と呼んでもいいじゃないだろうか。