自身の希死念慮について(2)

希死念慮は「病の症状」であり、実際に死に結びつくわけではない…と書いたが、同時に「死に絶対に結びつかないわけではない」という事も書いた。

これは私自身の体験による。

希死念慮というよりも、とにかく死への考えで頭がいっぱいになると、もはや「誰かに助けを乞う」という方法すら選ばなくなる。 (これは個人差があるかもしれない。例えば、希死念慮を持つとある人は、行動は起こさずとも、周囲の人に死を仄めかすような発言をするかもしれない。 私の場合は、死を仄めかす事はそもそも選択肢に出てこない。助けを求めた結果、受け入れられない事への恐怖の方が大きい為だ。)

1度目は、いかにして迷惑がかからないように、自分も恐ろしくないように死ぬ方法はないか、と考えた時だった。 ちょうど時期は夏場で、ほとんど引きこもり状態の自室には、常に寒いくらいの冷房が付いていた。

熱中症なら仕方がない」

そんな結論を出した事がある。 飛び降りや縊死は確実に自死であるが、「夏場の室内熱中症による死亡」であれば、病死であるし、 自死よりはまともな死に方(家族の後悔は自死よりは減るのではと考えた)に思えた。 暑いのかもしれないが、寝ている間に熱中症でひっそりと息を引き取る… この上なく都合のいい死に方に思えた。 だが、実際にやってみようとした時、恐ろしくてぶるぶる震えた。 私がした事はなんという事はない。 付けっ放しだった冷房のスイッチを切っただけだ。 だが、私にとっては、「冷房のスイッチを切る」という行為は、「今、自ら死を選択した」事であり、 スイッチを切った後、恐怖で泣き出した。 当然、冷房のスイッチを切った程度ではすぐに死になどしない。 だがとてつもなく怖かった。死への恐怖なのか、いよいよ自ら死を選択し始めた自分への恐怖なのかわからないが、とにかく恐ろしくて号泣した。

結局はその後思い直し、冷房のスイッチは入れ直して、何とか死ぬ事は避けよう、と思った気がするが、 そんな考えに至り、実行した事は、誰にも相談できずにいた。

2度目は、多分手元にあるものが“正しいもの”であれば、 そのまま実行していただろうと思う。

冷房のスイッチを切った時とは異なり、私はもう果てしなく追い詰められていた。生きて意識がある一分一秒が耐え難かった。 縊死をしようとしたのだ。 手元のスマートフォンで、「首 括り方」などと検索すれば、幾らでも情報が出てくる。 私は長めの電源コードを手に取って、「もやい結び」の練習をした。 吊って死ぬのは縊死といい、 窒息死ではないのだという。 頚動脈を圧迫する事で脳に血液がいかなくなり、脳の機能不全となって死に至る。それを縊死と呼ぶ。 縊死は確実性が高いが、吊る為の「紐」、吊る「場所」の2点が確実でなければならない。 私が選んだ「紐」は電源コードで、首に当てがった感じでは強度はありそうだったが、 かなりの弾力性があり、結んでもたわんでしまう為、 肝心の「もやい結び」ができなかった。 私の自死へ対する意志はそこで途切れ、無茶苦茶になって暴れ、泣き叫びだした。

もし手元にあったのが、たわみがあって結べない電源コードではなかったら。 きちんと結べるような「紐」だったら。

その後程なくして私は入院した。 四回目である。 ここ2年間の間で、およそ半年以上を入退院で過ごした事になる。

電源コードがたわんだので死なずに済んだ、と思わない。思えない。 生き永らえた、生きなければならない、まだこの地獄が続くのだ。

「どうか生きて欲しい」「生きているだけで宝だ」「死なれたら後を追ってしまう」 それらの言葉は私を何も救わない。 それらの言葉は、私の救いではなく、貴方の要望だからだ。 死を望む人が身近にいるショックを、自分の苦痛を和らげたいが為の言葉だ。 「私の苦痛」は何も取り除かれはしない。

「辛かったろうね。」 私の骸にそう言って、自死を許してくれる事の方が、どれだけ私の救いになるか。