土砂降り

食事が喉を通らない。 比喩でも誇張でもない。事実と現状である。


あまりにも絶望感と死の希求が酷いので、何の考えも持たずに外へ出てみる。 「死ぬ前に何かおいしいものが食べたい」 「歩いたら希死念慮が和らぐかもしれない」 「家族は助けにならないと割り切って私自身を私が生かす道がないか」 そんな事を考えながら近所のコンビニへ向かった。

アイスや菓子を買って食べたが、さほどおいしいとは感じなかった。 美味だとも不味いとも思わず咀嚼して食べた。 (所詮コンビニの菓子だからたかが知れている、というわけではなく、私の味覚が麻痺している為だ。)

歩いたり、体を動かす事は、精神疾患の治療として有効であるらしいし、 実際軽い運動をする事で、比較的気分が良くなる事もあった。

だが今回はまるでだめだ。

たった数日だか数週間だか前、この同じ道を父と共に歩いて、景色や樹木の話などをしていたのだ。

あまりにもかけ離れた現在。 他の人の目には見えない真っ黒な絶望の雨が土砂降りで私の背中を殴り叩きつけているような気になった。 道端に咲いている石蕗の花を千切って無茶苦茶に踏み荒らしてやりたい衝動に駆られる。 そんな事をしても悲しみが増すだけなのでしない。 石蕗の花は変わらずに咲いて枯れているのに、 私の中の希望は潰えてしまった。

死刑宣告を受けた虜囚のようだ。 退院まであと6日。 あと6日で家に帰らねばならない。 (この感覚。死刑宣告のようだ。)

対岸の火事

希死念慮が病の一つの症状であるならば、絶望感はそれとは異なるものだ。

漠然とやってきたり、ぼんやりと思うものではない。

絶望というのは、希望(今より僅かでも楽になるかもしれない可能性)がほんの一欠片の見つからない状態を言うのだ。 文字通り「望みが絶たれている」。 前にも。後ろにも。その場でやり過ごす事すら不可能だ。 だから恐ろしい程の希死念慮に襲われる。漠然とした死にたさではない。


私は火事にあっていて、誰かの助けがなければそのまま火炎の中で焼死してしまう。

この状態が家族には全く伝わらない。 私が火事にあっている事が伝わらない。 このままでは焼け死ぬ事が伝わらない。 火事にあっているという事が分かったとしても、消火をしたり、助けに来たりする手段がわからないので、「助けられない」と言う。 火の届かない遠い対岸で、 いかに「自分達が」私の無事を思っているか、 いかに私の事で「自分達は」胸を痛めているか、 いかに助けたいと思い、それができない事を「自分達が」苦痛に思っているかを、 とうとうと述べている。

どんなに滑稽な図か、想像できないのだろうか? 私は今まさに火の中にいて、このままでは確実に焼け死ぬのだ。 彼らは遠くでずっと「自分達の」非力さを嘆いたり、謝罪したり、何をしていいかわからなく事を苦しんでいると訴えたりしている。 がむしゃらに火事の家から助け出すという選択肢は一切無いのだ。 (彼ら曰く、「その方法がわからない」。) 焼け落ちる家の中で、私は茫然と対岸の彼らを見ている。 これが絶望でなくてなんであろうか。

私は海で溺れていて、誰かの助けがなければこのまま溺死してしまう。

火事と同じだ。 彼らは桟橋の上で、 どれだけ自分達が私を大切に思い、 どれだけ自分達が私の身を案じているかを訴え、 それでも、自分達は泳げないので海には入れないと主張する。困惑の中での自分達の努力を主張する。 泳げないので海に入れない事を嘆いている。自分達の非力さを詫びたりしている。 目の前で人が溺れているのだ。 私は海の水で溺れ苦しみ続けながらその様子をじっと見ている。 私の目の前に居ながら、目の前で私が溺れていながら、助けられない、そのやり方がわからないと「嘆いているだけ」の彼らを見ている。 ああ、絶望だ。 彼らは永久に私を「助けてはくれない。」

いかに自分達が非力で、過去に何をどう誤ったのかを考え、それに苦しみ、嘆くだけの存在。

火事の家に飛び込んできてはくれない。 海に入って救助はしてくれない。 「どれだけ自分達が私を思っているか」と「自分達にはそれができない」事を私に訴え続けるだけだ。

どこの誰だって構わない。 確実に死に結びつくこの苦しみから助けてくれるなら誰でも構わない。 ただ、私の家族は、私の目の前に居ながら、ずっと「自分達がいかに無力で申し訳なく思っているか」を述べ続けている、 この異様な絶望的な光景をもう見たくはない。

非力さを嘆く事、過去にしてやれなかった事を謝罪する事、今自分達がどれだけ私を思い、大事であり、助けたいと思っているかを「ずっと演説している。」

救命器具の一つでも投げたことは「一度も無い」。

いっそ私に無関心である方が割り切れるというものだ。 彼らの「訴え」は、「訴えればその分だけ」どんどん空中に浮いた、ナンセンスな主張になる。 同時に私にとって、最大でもはや揺るぎようのない「絶望」をもたらす。

溺れている人間の前で、いかに自分が泳げないかを訴え続けるだけの存在が、 どれだけ滑稽で、どれだけ絶望的に感じられるか、 これでも想像はできないだろうか?

嵐が去るまで待って?

希死念慮は「症状」である。 だから、症状(希死念慮)が出た場合の対処としては、薬を飲み、「寝逃げ」をする。

…インターネットで調べた限りでは、そう書かれている。 また、主治医からも「不穏時の頓服薬が処方された」様に、対処法は「薬を飲む事」なのだろう。

だが、漠然とした「死にたい」気持ちではない場合は? もう絶望で疲弊しきり、立ち直れない事からきている「苦痛から解放されたい」の場合は?

解放されたい、が真に求める事なら、 希死念慮が起きたら薬を飲み寝てやり過ごす… それで「やり過ごせるのか?」と思う。

喘息の発作とは違うのだ。 発作や衝動が治るのを待てば、嵐が去るのをじっと待つように耐えきれば、その後には「何も無かったかのような晴れ」がやってくるのか?

「絶え間のない絶望と苦痛から解放されたい」という感情なのだ。

一時の台風を耐え忍ぶような「やり過ごし方」で、本当にやり過ごせるのか?

甚だ疑問である。 同時に、途方もなく不安で恐ろしい。 いつまでも続く恐怖。絶望。苦痛。

カミングアウトの恐怖

希死念慮がある事を告白するのは、とてつもなく勇気がいる。恐怖がある。

相手が例え専門家だとしてもだ。

精神療養の医療機関への入院時の項目に、「希死念慮はあるか」「自傷歴があるか」「自殺未遂はあるか」などのチェック項目がある。

果たして希死念慮を持つ人間が、そのチェック欄にためらいもなく正直にチェックを付けられるだろうか?

チェックを付けた時点で、入院を拒否されるのではないか。 そうしたら、もうどこへも行くあてがなくなってしまう。

主治医にも、長らく希死念慮がある事を伝えられずにいた。 希死念慮は「必ずしも自殺と結びつくわけではない」が、「絶対に結びつかないわけではない」事は、身をもって知っている。 自殺衝動のリスクのある患者など、診てもらえるのだろうか。 信頼をしている医師だからこそ、カミングアウトをして、この病院ではもう扱えない…と判断されたらどうしよう、というとてつもない恐怖があった。 希死念慮の辛さは当事者である自分がよくわかる。他に希死念慮を持った人がいたら、私は我がごとのようにその人を何とか安心させたいと思う。

でも、先生に見放されてしまったら… この病院ではない、見知らぬ新しい別の病院へ移動する事になったら… 自殺するリスクのある患者として絶えず監視されるような生活になったら… 予想のつかない不安と恐怖が増した。希死念慮がある事を伝えるのは、本当に勇気のいる事だった。

結局、つい先日になってようやく、主治医に希死念慮がある事を伝えた。 あまりに希死念慮が強く、日中も身を起こしている事ができないくらいで、もう退院したら家に帰ったその足で自死を決行してしまいそうだったからだ。

主治医は特に深く傾聴してくれたわけではなかったが、自殺のリスクが高く緊急性があり、この病院ではもう診ていられない、というような運びにはならなかった。 (不安時に加え、「不穏時の頓服が使用出来るようにしておく」というのみにとどまった。)

希死念慮、 この、「本当に当事者にしかわからないであろう、あの感覚」。

死にたいという気持ちは、文字通り100%ネガティヴ極まりない意味を持つ。 故に、感覚を理解しがたいと思う。 家族であっても、伝わりもしないのだ。

死にたい、は正確な表現ではない。 だが、死への希求という極めてネガティヴな印象がある為、 ほぼ間違いなく「受け止めてもらえない」。

私達は「死にたい」のではないのだ。 「絶え間なく続く苦痛、絶望から解放されたい。その手段として、もう自分には死しか可能性が見えない。」 これが、多分、本当に訴えたい事だ。

「生きて欲しい」(それは貴方の願望であり、私の苦痛を取り除く手段ではない) 「死ぬなんて言われたらショックだ」(それは貴方の受けた精神的ダメージであり、私の苦痛を取り除く手段ではない) 「今は辛くても生きていればきっと日が昇る」(今辛いから解放を望むのだ。私達にとって、明日はもはや絶望の延長でしかない)

今辛い。 今、解放されたい。 でもそんな手段はない。飲んで苦痛がすぐに去るような薬もない。地道に、1日1日を送っていくしか方法はないと、分かりきっている。 だが分かりきった上で、「もう疲弊しきり、生きていくのは限界で、今、苦痛から解放されたい。」 それが希死念慮だ。

自身の希死念慮について(2)

希死念慮は「病の症状」であり、実際に死に結びつくわけではない…と書いたが、同時に「死に絶対に結びつかないわけではない」という事も書いた。

これは私自身の体験による。

希死念慮というよりも、とにかく死への考えで頭がいっぱいになると、もはや「誰かに助けを乞う」という方法すら選ばなくなる。 (これは個人差があるかもしれない。例えば、希死念慮を持つとある人は、行動は起こさずとも、周囲の人に死を仄めかすような発言をするかもしれない。 私の場合は、死を仄めかす事はそもそも選択肢に出てこない。助けを求めた結果、受け入れられない事への恐怖の方が大きい為だ。)

1度目は、いかにして迷惑がかからないように、自分も恐ろしくないように死ぬ方法はないか、と考えた時だった。 ちょうど時期は夏場で、ほとんど引きこもり状態の自室には、常に寒いくらいの冷房が付いていた。

熱中症なら仕方がない」

そんな結論を出した事がある。 飛び降りや縊死は確実に自死であるが、「夏場の室内熱中症による死亡」であれば、病死であるし、 自死よりはまともな死に方(家族の後悔は自死よりは減るのではと考えた)に思えた。 暑いのかもしれないが、寝ている間に熱中症でひっそりと息を引き取る… この上なく都合のいい死に方に思えた。 だが、実際にやってみようとした時、恐ろしくてぶるぶる震えた。 私がした事はなんという事はない。 付けっ放しだった冷房のスイッチを切っただけだ。 だが、私にとっては、「冷房のスイッチを切る」という行為は、「今、自ら死を選択した」事であり、 スイッチを切った後、恐怖で泣き出した。 当然、冷房のスイッチを切った程度ではすぐに死になどしない。 だがとてつもなく怖かった。死への恐怖なのか、いよいよ自ら死を選択し始めた自分への恐怖なのかわからないが、とにかく恐ろしくて号泣した。

結局はその後思い直し、冷房のスイッチは入れ直して、何とか死ぬ事は避けよう、と思った気がするが、 そんな考えに至り、実行した事は、誰にも相談できずにいた。

2度目は、多分手元にあるものが“正しいもの”であれば、 そのまま実行していただろうと思う。

冷房のスイッチを切った時とは異なり、私はもう果てしなく追い詰められていた。生きて意識がある一分一秒が耐え難かった。 縊死をしようとしたのだ。 手元のスマートフォンで、「首 括り方」などと検索すれば、幾らでも情報が出てくる。 私は長めの電源コードを手に取って、「もやい結び」の練習をした。 吊って死ぬのは縊死といい、 窒息死ではないのだという。 頚動脈を圧迫する事で脳に血液がいかなくなり、脳の機能不全となって死に至る。それを縊死と呼ぶ。 縊死は確実性が高いが、吊る為の「紐」、吊る「場所」の2点が確実でなければならない。 私が選んだ「紐」は電源コードで、首に当てがった感じでは強度はありそうだったが、 かなりの弾力性があり、結んでもたわんでしまう為、 肝心の「もやい結び」ができなかった。 私の自死へ対する意志はそこで途切れ、無茶苦茶になって暴れ、泣き叫びだした。

もし手元にあったのが、たわみがあって結べない電源コードではなかったら。 きちんと結べるような「紐」だったら。

その後程なくして私は入院した。 四回目である。 ここ2年間の間で、およそ半年以上を入退院で過ごした事になる。

電源コードがたわんだので死なずに済んだ、と思わない。思えない。 生き永らえた、生きなければならない、まだこの地獄が続くのだ。

「どうか生きて欲しい」「生きているだけで宝だ」「死なれたら後を追ってしまう」 それらの言葉は私を何も救わない。 それらの言葉は、私の救いではなく、貴方の要望だからだ。 死を望む人が身近にいるショックを、自分の苦痛を和らげたいが為の言葉だ。 「私の苦痛」は何も取り除かれはしない。

「辛かったろうね。」 私の骸にそう言って、自死を許してくれる事の方が、どれだけ私の救いになるか。

自身の希死念慮について(1)

前のエントリーにも少し書いたが、ここ数日でこれまでにないほどの希死念慮に襲われ、起きる事もままならない程度の絶望感で打ちひしがれている。 打ちひしがれている…というと、悲劇のヒロインのように聞こえるかもしれないが、ふとした拍子に、本当の死の可能性を持って怒涛のように襲ってくる恐怖だ。 そんな美しいセンチメンタリズムではない。

私が今感じている希死念慮、絶望感について、これ以上無いくらいに「ぴったり」という説明をされているブログを拝見した。

希死念慮と向き合う | 社会不安障害と向き合う

以下、部分引用

“私は言葉を選びながら、ゆっくり話した。「悲観や絶望に陥らずに、毎日、できることをやり、少しずつでも進むことが大切であることも、解決法はそれだけであることも知っている。それなのに、自分のどこか根幹の部分が、どうにもならないほど疲弊していて、進むことができない。疲れきって動けない。これではいけないとは思う。いつまでこんなふうに苦しみ続けるのだろうという思いが圧倒的になってきて、なにもかもを終わりにして、世の中から消えることが、理不尽に永久に続くかのような苦しみを終えるには唯一の方法であるようにも思えてくる」”

本当にこの通りなのだ。一言一句違わないと言っても過言ではないくらい、この通りなのだ。

私は先の不安を感じると、その度にひどく悲観的になり、絶望感に打ちのめされた。その時に咄嗟に出る言葉は「もう嫌だ」「もう乗り越えられない」「もう次は無理」、そういった言葉だった。 全て「もう○○」という出だしである。 一つ一つの不安材料は一つ一つ乗り越えるしかないと分かっているつもりであっても、 絶え間のない苦痛の中、何らかの不安材料が現れると、「もう嫌だ」と全てを否定し、絶望に陥る。 それは実際そうなのだ。 不安材料が現れなくとも、表面化していないだけで「常に苦痛は絶えず続き、その中に一人で身を置いている」という状態であるからだ。 新たな不安材料に立ち向かうだけの力などもうとっくに無いのだ。日々の中(常に絶望に襲われ続けている生活)で、そんな当たり前の事(一つの不安材料には、一つだけ乗り越える)もできない程度には磨耗しきったのだ。

疲れ切った。心が疲弊しきっている。 まるで先が見えないからだ。 形ある姿でこの病は終わりを迎えない。(うつ病は「治る」とは言われているが、今の私には想像がつかない。) いつまでもこの疲れから解放される事は無く感じる。永遠に、常に恐怖と不安に苛まれて暮らすように思える。 苦痛は無くとも前進もしない1日が終わる。(申し訳ないが)まだ私は老い先短いわけではない。あと何年、こんな風にして1日1日を過ごしていくのか。家族はおそらく先に亡くなっていく。順番で言えば私は最後に残される身だ。 残った後私はどうやって生きるのか? そもそも生きている最低限の楽しみすら今見出せないのに?もはやこの先の人生は、終わりが来るまで全て絶望的な期間に思える。 だから、「終わりの事」を考えるようになる。いつ「終わり(苦痛からの解放)」が来るだろうか?

私には身体の病気がある。だが癌のように生死が常に近い病ではない。だが、その病で今死ねたらどんなに楽だろうと思う。 逆に、その病と一生寄り添って生きていこう、そんな気力などない。 治療は絶する身体的苦痛を伴う。だからこそ、生死が関わらないからこその苦痛と不安に満ちている。

心の病に苛まれる生活の終わりは見えず、 身体の病と付き合う現実は絶えず目の前にある。 心の病の症状として、楽しみを楽しむ事はもうずっと出来なくなっている。同時に、不安感や焦燥感は“絶え間無く”続いている。 どこにも希望がない。 これを絶望というのだ。

絶望から解放されたいのだ。疲労困憊だ。もう終わりにしたい、苦痛が頂点になると漠然とそう思う。 もう終わりにしたい…もう終わりにしたい…。もう元の生活に戻れなくて構わない。(元の生活がどんな風に達成感に満ち充実していたのか、思い出せない。) 戻れる、という希望を見出せない。ただひたすらに、今の苦痛からの解放を願うようになる。もう終わりにしたい…。すなわちそれは病の克服ではなく、死への希求だ。 希望の欠片も見出せず、絶え間のない苦痛・絶望感の中で、それから解放されたいと思い続ければ、自ずと辿り着くのは「死」だ。 死が全ての苦痛からの唯一の解放に思えてくる。 (他に方法があるという実感を得られないからだ。)

私にとっての希死念慮は、漠然とした「死にたい」ではないような気がする。 自殺企図にかなり近い。 ずっと「どうすれば確実に(できればあまり他人に迷惑がかからずに)死ねるか」という事で頭の中がいっぱいになっていた。 (客観的に見れば、自死の時点で他人に迷惑のかからない方法などないのだが、希死念慮を持った事のある人であれば、その矛盾を持ちながらも自死の方法に思考を巡らせるあの感覚がわかると思う。) オーバードーズ(薬物の大量摂取)はかなり不確実なので選択肢に上がらない。 自傷もそうだ。よほどの覚悟を持って確実に致死に値する方法でなければ、「自傷歴がある患者」として、更に苦痛な人生を永らえるだけ、と想像するのは容易い。 飛び降りは確実性は高いが、万が一生きてしまった時の生き永らえ方は悲惨極まりないだろう。 縊死はほぼ100%だという。私の頭の中はずっと飛び降り、縊死、飛び降り、縊死…その事で埋め尽くされた。 誰にも助けを乞う事はできなかった。

これだけ自死の事を考えていても、人間には生命を維持しようという本能がおそらくある。 行動に移そうとする時、それはもう恐ろしく、恐怖で号泣する。 つまりは、死にたいわけではないのだ。 多分、生きていたいのだ。 だが死ぬしか楽になる方法が見つからない。 その矛盾と、誰の助けも貰えないという孤独感と、生き続ける事(苦痛が現実として続く事)の、全てがごちゃごちゃと相反し、嗚咽を漏らしながら実行できずにまた1日を終える。

生き地獄だ。

閑話休題

長々と書いていたエントリーが消えてしまった。 スマートフォンは便利であるが、やはり長文を書くには不便である。


希死念慮がひどい旨を伝えた家族から面会の希望があったが、(特に記載をしていなかったが、私は現在入院中である)気分・体調共に非常に優れない為、断った。

これだけを書くと、私は「家族が心配してくれているのにそれを断る、自分勝手で傲慢な人間だ」と見えるだろう。 また、希死念慮が「家族に心配してもらいたいが為の口実」のように捉えられるかもしれない。

希死念慮は必ずしも本当の自死には結びつかない。 結びつかないが「死にたいと常に思う」という状況は、異常で大変苦痛なものである事と、 絶対に結びつかないわけではない(実際に自死に繋がる場合もある)事は言っておきたい。

私はまさにその境目にいる。 どこの誰かに心配して欲しいわけでもなんでもない。自死を止めて欲しいわけでもない。 これはただの記録である。