希死念慮は「症状だ」と理解する為に

希死念慮という感覚は「何らかの病気の症状である」と書いたが、実際のところ、私自身がまだそう思う事が出来ずにいる。

希死念慮、雑にまとめると「死にたい、消えたいという気持ち」は、頭痛や腹痛などとは異なり、「完全な感情的感覚」だからだ。

痛覚は「症状」としては分かりやすい。(痛覚の方が分かり易いので楽であるという意味では無論無い。)
痛いという感覚は、何かしら異常があるサインである=病気の症状としての「痛み」である、というのが分かり易い。

「死にたい」「消えたい」という希死念慮が、体験をした当人にしか伝わらないようなものであるのは、「それが極めて感情的な感覚であるから」だと思う。

例えば腹痛(痛覚)であれば、腹痛を治める薬を飲み、その痛みが消える事で、「症状が去った(=腹痛は病気の症状であった)」と感じる事ができる。

希死念慮はそれが難しい。
希死念慮を治める薬というものは無く、気分変調を和らげる薬(気持ちを鎮める、少し眠くなる等)を飲み、「やり過ごす」しかない。
やり過ごすと言っても、痛みのように「薬を飲んで寝て起きたら、死にたいという気持ち(症状)がなくなっていた」というものでもない。
(そういう体験者が全くいない訳では無いだろうが、少なくとも私の経験上は今のところ無い。)
つまり、確実に「やり過ごす」方法がないのだ。

その為に、気持ちを落ち着ける薬を飲んで一時は眠りにつけたとしても、また起きて生命活動を始めれば、自然と希死念慮が頭の中に浮いてきて…という事を繰り返す。
この為、「死にたいという気持ちは症状だ」と割り切るのはとても難しい。

希死念慮自殺念慮、自殺企図は、「精神的な病の症状の一つ」としては片付けられない程深刻だ。
実際に行動を起こすに至らなくても、四六時中、頭の中で「死にたい、死にたい」と考え続けていれば、
それ自体がこの上ない苦痛であり、
消極的希死念慮から、積極的希死念慮や自殺企図に移行するのも時間の問題のような気がする。

「死にたい」という感覚を漠然と持つ事もあれば、
さまざまな療養や生活の上で、とうとう先の事全てに絶望感を持ち、「この苦しみからもう逃れたい、もはや逃れる方法は死しかない」と思う事もある。
その絶望感や、苦しみから逃れたいが為に死を選ぶようになる、という事も病の症状なのだと思う(思いたい)が、
深い海に溺れ、今にも沈んでしまいそうな感覚に陥っている状態では、
「溺れているという感覚自体が病の症状であり、まだあなたは十分助かるのだ」
という事を、自ら知覚する事はとても難しい。


希死念慮は「症状である」事の参考にしたWebサイトの引用と、個人的な感想を幾つか。

自殺について知っておきたい知識 - うつペディア
希死念慮は「本当に死にたいのではなく、症状の一つだ」と書かれている。
希死念慮が起きた時の「対処法」、対処した時の体験談の記載あり。

[気になった点]
・薬による寝逃げで、それ以降希死念慮が起きなくなった体験談が記載されているが、私は寝逃げによる希死念慮の回避は体験した事がない。(避けられていない。)
・「自殺は最大の暴力という知人の言葉をお守りにしている」という意見には、唾きを吐き捨てたくなる。
他人に迷惑がかかるのなんて重々に承知しきっている。
自分の為に自分を生かす事ができない状態の人が、なぜ「他人への暴力になる」という理由で自殺を回避できるのか。
まるで説得力を持たない。

自殺願望と希死念慮
→書かれている事の大半は全く参考にならなかったが、後半に書かれていた「死にたくなるのは、脳の神経回路の誤作動です」という箇所にだけ、少し救われる思いがした。

我ながらひどい散文だと思うが、少しでもこうした吐き出しが心の整理になるのならと思い、続けます。